第30話「坂の上の亡霊」
ベルンハルト勇者大学に通う学生たちの間でまことしやかに囁かれる、ある噂があった。
その名も“坂の上の亡霊”。
噂の舞台となるのは大学から伸びる大通りを大きく外れ、心臓破りの坂を登ったところに建つ、通称“おばけアパート”の周辺である。
曰く、茂みの中からしくしくと幼子のすすり泣く声が聞こえる。
曰く、夜の暗がりの中にぽつんと佇む獣人の童女の姿があるが、声をかけると煙のように消えてしまう。
曰く、突如現れた幼女が意味不明な謎かけをしてきて、これに見事正解するとどんな望みでも叶えてくれる。
等々、等々……
言うまでもないことだが、学生というのは極めて暇な生き物である。
要するに、そんな彼らが持て余した暇をもって面白おかしく尾ひれを装飾し、ついには悪趣味な金魚じみた様相を呈してしまった怪談話こそが“坂の上の亡霊”……というのが通説であった。
言うまでもなく、皆が本気で噂を信じているわけではない。
……彼女を除いて。
「ぜえ、はあ……噂によると……このへんなんすけど……」
夜も更けた頃、坂の半ばで荒く息を吐き出す一人の女性の姿があった。
クセっ毛頭にいかにも気弱そうな困り眉。
身長は女性にしては高いが、丸まった背中のせいでさほどにも見えない。
彼女の名前は――ノア。
ベルンハルト勇者大学三年生、語り草級呪術師、ノア・パラストールである。
彼女は汗で額に張り付いた長い前髪を指でかき分けながら、乱れた息を整える。
「坂の上の亡霊……なんでも願いを叶えてくれる……絶対に、絶対に見つけるっす」
ノアは大きく深呼吸して、自前の照明魔具で暗闇を照らし上げる。
弱々しい照明魔具の灯りが、かえって濃い闇を浮き彫りにした。
夏の夜風が汗ばんだうなじを抜けて、ノアは思わずぶるりと身体を震わせる。
「……お、おーーい……亡霊さーん……いるんすかー……?」
勇気を振り絞って、件の亡霊を呼びかけた。
暗闇から返ってくるのは虫のさざめきだけだが、それすら彼女の恐怖心を煽ってくる。
ノアは手の震えを抑えながら、おっかなびっくり暗闇を進む。
「ぼっ、亡霊さーん……別に悪いようにはしないっすよー……いたら返事くださーい……」
虫のさざめきをかき消すほどに心音が激しくなる。
嫌な汗がたらりと顎下を伝い、喉はからからに乾く。
彼女の頭の中で早くも“後悔”の二文字がぐるぐると巡り始める――そんな時。
足下の茂みから、がさりと音がした。
「ひぃっ!?」
ノアは口から心臓が飛び出しそうなほどに驚き、慌てて照明魔具をそちらへ向ける。
気のせいではなかった。
がさりがさりと茂みが波打ち、何かがこちらへ近付いてきている。
最早ノアは逃げ出すことも声をあげることもできない。
恐怖に顔を引きつらせて、両目を見開くばかりである。
がさり、がさり。
音は徐々に近づいてきて、そしてとうとう――
「ごごごごごめんなさいっす!! 私食べても美味しくな――!」
「にゃあ」
「……にゃあ?」
ノアはゆっくりと視線を下ろす。
そこには二本の足で立ち、両前脚を腕のようにしてパンを抱え、ノアを見上げる茶虎の猫の姿があった。
――ケットシー。
等級は空白級で極めて無害、猫によく似たモンスターである。
「け、ケットシー……? はぁぁぁぁ、驚かせないでほしいっす……」
ノアは安堵と落胆の入り混じった溜息を吐き出した。
まさか、坂の上の亡霊の正体がケットシーだとは。
噂の真実なんてたいていはこんなものと相場は決まっているが、しかし、これはあんまりで……
そう思った矢先、茂みが大きく揺れて、小さな人影が飛び出してきた。
「――こおらクソ猫! ゆーりの晩御飯かえせ!」
ケットシーの後を追うように茂みから飛びだしてきたのは頭頂部から丸い耳を生やした獣人の妖女であった。
首には、なにやら見慣れない金属製の耳当てのようなものが引っかけてあるが、そんなのはもはやノアの意識の外であった。
完全に油断しきったところへ、突如声を荒げながら現れた幼女。
ノアは一度「ひっ」と小さく悲鳴をもらして――
「ひぎゃあああああああああっ!!!?」
絶叫。
これには丸耳の獣人幼女もたまらず、
「ぎゃああああああああああっ!!!? ……うっ」
絶叫ののち、糸が切れたようにこてんと身体を横たえ、そのまま動かなくなってしまった。
――余談だが、狸は強い刺激を受けると反射的に擬死状態となる。
これが俗に言う狸寝入りである。
たいへん、たいへんお待たせいたしました……!
本日より「ラスボス手前のイナリ荘」第二章、開始させていただきます!
書籍化作業も進行中! そちらの続報も追ってお伝えいたしますので、なにとぞよろしくお願いいたします!
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