第31話「イナリ荘の夜」
イナリ荘一階、102号室。
床に就き、安らかな寝息を立てていたルシル・シルイットは、外から聞こえてくる絶叫によって目を覚ました。
「んんっ……なんだ? 悲鳴……?」
ルシルは寝惚け眼をこすりながら、魔術灯に光をともす。
自らの愛刀――火竜の息吹に手をかけたのは、もはやクセのようなものだ。
「こんな時間に……学生か? 全く大学生と言うのは節操がなくていけないな……」
ルシルはいかにも眠たげにのそのそとベッドから這い出すと、やたらと軋む窓を開け放ち、外の様子を見やった。
雲一つない静かな夜だ。
月明かりがあたりを照らし上げており、そこには何も変わった様子は見受けられない。
……夢か何かでも見たのだろうか?
そう思い始めたあたりで、眼下で自分と同じように周囲の様子を窺う、彼の姿を見かけた。
「大家殿、こんばんは」
大家殿――もといオルゴ・ノクテルは頭上から呼びかけられて肩を跳ねさせる。
しかしすぐにその声の主が住人の一人、ルシルによるものであると気付いて、ほっと胸をなでおろした。
「な、なんだルシルさんか、ああびっくりした……」
「いきなり声をかけてすまないな、ところで大家殿はこんな夜中に何を?」
「いやさ、なんか女の人の悲鳴が聞こえたような気がしたから……噂の不審者でも出たのかと思って」
「……その手に持った竹箒は?」
「いや、万が一不審者だったら怖いじゃん……!? 武器だよ武器……」
「大家殿ならたとえ……いや、やめておこう」
「え? なに?」
「なんでもない」
大家殿ならたとえ不審者が百人単位で徒党を組んで襲撃しに来ても素手でどうにかなりそうだが――
という意見は欠伸と一緒に噛み殺した。
――改めて、彼の名前はオルゴ・ノクテル。
災厄を打ち倒す者、神話を終わらせる者。
もしくはボロアパート“イナリ荘”の大家という、なんとも特異な存在である。
特筆すべきは、彼が自らを空白級のどこにでもいる普遍的大家と信じて疑わず、自らの実力には一切気付いていないということだ。
そして、決してその勘違いに気付かれてはならない。
何故ならば彼が自らの実力に気付いた時、それはすなわち世界が終わる時に他ならないのだから……
「る、ルシルさん悪いけどそこで見ててくれない……? 俺がこう不審者に負けそうになったら大声で叫んでもらえるとすごく助かるんだけど……」
「……承知した」
まぁこの分なら当分は気付かないだろうな……
ルシルが心中でそんなことを考えていると、その矢先。
「一体なんの騒ぎですの~……」
視界の外から聞き覚えのある女性の声。
ルシルは声の主を確認すると、慌てて眠気を追いやり、姿勢を正した。
「み、ミレイア殿!」
――ミレイア・クリュオール。
イナリ荘101号室、すなわちルシルの隣の部屋で暮らす、伝説級の魔法騎士だ。
ベルンハルト勇者大学においては文字通り伝説的な卒業生の一人であり、かつては伝説級冒険者パーティに就職し、第一線で活躍していた経歴もある。
しかし二週間ほど前、とある事情から退職し、今はイナリ荘を拠点にして就活浪人中とのこと。
「お、お疲れ様で……!」
ルシルは慌てて彼女へ挨拶をしようとして……固まった。
何故ならば、今の彼女の格好が、いつもの凛々しい姿と比べると、あまりに気が抜けていたからだ。
彼女の全身を覆い、その高潔な精神を示していた白銀の鎧は、見るからに着心地のよさそうな寝間着が取って代わっていて。
下ろした金髪のてっぺんにはナイトキャップがのっかっている。
片手に読みかけの文庫本が握られていることも補足しておこう。
これにはルシルだけでなく、オルゴも面食らったようであった。
「……なんですの、そんなにじろじろ見て」
「いや、ミレイアも小説とか読むんだな……と思って」
「失敬な……と言いたいところですが、まぁ確かに今まではこういった娯楽小説の類には触れてこなかったわけですからね、いかんせん今は時間がありますので手を出してみました」
「ちなみに何を?」
「クレリアンターヌの悲劇という戯曲ですわ」
「く、くれ……何?」
「クレリアンターヌの悲劇、知りませんの? 400年前の伝説的劇作家カリアの名作……と古本屋の主人に教わりました」
「あーーそういう……楽しい?」
「私はこういった物語の類に疎いのですが……ええ、それなりに面白かったと思いますよ、もうすぐ読み終わります」
「……俺、小説好きで集めてるんだけど貸そうか?」
「あら、それは助かりますわ」
「じゃあ適当に見繕っておくから都合のいい時に取りに来てな」
「分かりましたわ、じゃあおやすみなさいませ」
「ああ、おやすみ~」
気の抜けた挨拶とともに、解散しようとする二人。
そんな彼らの様子を見下ろしながら、ルシルはぼそりと呟いた。
「……不審者は?」
「あっ!? そうだった! あぶねえ!」
抜けているのは大家殿も一緒か……
と、ルシルは心中呟いた。
そんな時である。
――ひゃああああああああああああっ……!
心臓破りの坂から、女性の悲鳴。
これにはさすがのルシルも顔色を変え、火竜の息吹を構える。
「悲鳴だ……! これはただごとではないぞ! 行こう大家殿!」
「ちょっ……!? ルシルさん危ないから!」
「何事ですの!?」
窓から飛び降り、その手に火竜の息吹を携えたまま、悲鳴の下まで駆け抜けるルシル。
この後を慌てて追いかけるオルゴとミレイア。
そしてその先には……
「……」
坂の半ばで、立ったまま白目を剥いて気絶する魔女帽子の少女の姿があった。
203号室の住人、御伽噺級魔法使い、シェスカ・ネリデルタである。
彼女の額には鉄甲虫の幼体が這っている。
オルゴがぼそりと呟いた。
「ああ、シェスカちゃん虫苦手だからな……」
「……人騒がせな」
「おやすみなさいませ」
かくして、イナリ荘の住人たちは各々の部屋へと戻っていった。
こうしていつも通りのイナリ荘の夜が更けていく。
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