第11話「午後の魔法使い」
――しかし、私ことシェスカ・ネリデルタの一日は始まったばかりなのです。
「ケル オ アルイ クラナ スパラ……ううん、駄目」
それは独自言語による超短縮詠唱。
私はこれを途中で打ち切り、手の内で渦巻いていた水のうねりを握りつぶしました。
ぱしゃあっと音を立てて、水が散ります。
「やっぱり独自言語での魔法制御は難しい……もう一つワードを追加して、いや、でもだいぶ惜しいところまできてるし……」
ああじゃない、こうじゃないと呟きながら、再び近くの小川へ水を汲みに行きました。
――ベルンハルト勇者大学敷地内、星見の丘。
私はいつもその場所で日課の夜練に取り組んでいました。
星見の名を冠するだけあって、そこは手が届きそうなほどに星が近く、そして静謐であり、魔法の鍛錬にはうってつけの場所だったのです。
しかし最近になって、その前提は崩れつつありました。
いったい誰が始めたのか、星見の丘はそのロマンチックさゆえに、うら若き男女たちが睦言を交わす場と化してしまったのです!
あっちにもカップル、こっちにもカップル。
中には……その、愛が極まりすぎたがゆえに、こ、事を起こす者たちさえ……。
とてもではありませんが、こんな場所で魔法を練るための精神の統一などはかれるはずがありません。
ゆえに、私は今日より場所を移しました。
星見の丘よりももっと静かで、人気がなく、なおかつ星に近い場所。
灯台下暗しとはまさにこのことを言うのでしょう。
ここなら、心置きなく魔法の鍛錬ができる上、家から近いときています。
ああ、なんで今までここに気がつかなかったのだろう。
――イナリ荘裏山、廃墟跡の存在に。
「よいしょっと……」
小川から汲んできた水の入ったバケツを足元に置く。
物体は基本的に液体に近ければ近いほど魔力を通しやすい。
水を用いて魔法の鍛錬をするのは、魔法使いの常道であります。
もう一度、やり直し。
バケツの中の水を手のひらで掬い、そして詠唱開始。
「ケル オ アルイ……」
詠唱と魔力放出に従い、手の内の水が僅かに震えだします。
もう、この時点で分かりました。
――さっきよりも全然集中できてない。
私は詠唱を打ち切り、そしてその場に座り込んで「はああああ……」と大きく溜息。
「なんで、私はいつもああなんでしょう……」
思い出すのは、つい先刻のこと。
大家さんに嫌味を言ったり、新しい住人のルシルさんに意地悪をしたり。
ああ、どうして私は素直に物を言うことができないのでしょう。
絡まった糸の塊が、私の頭の中で延々と転がり回っているような、そんな気持ちです。
もとより、精神統一などはかれるほどの精神状態ではなかったのです。
「大家さんに、嫌われてませんよね……」
むろん、彼ならばそんなことで人を嫌いになったりなんてしない、なんていうのは重々承知です。
分かってはいます、分かってはいますが、口に出さずにはいられません。
何故ならば、それこそが私にとって最も避けたい可能性ですから――
私はもはや何万回と思い出した、あの日のことを再び頭の中に思い描きます。
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私がベルンハルト勇者大学へ入学するにあたり、四年間の住居としてイナリ荘を選んだ理由。
そんなもの、実はありません、というより思い出せないのが実際です。
考えられる理由は破格の家賃……いえ、あまりしっくりこないので、もしかするとあみだくじでもして決めたのかもしれませんね。
住む家なんてどこでもよかったのです。
だって、帰って寝るだけの場所でしょう?
だったらベッドと少しの着替えと、食料の備蓄さえ格納できれば、どこだっていいじゃないですか。
ルームコーディネイト? 温かみのあるご近所づきあい?
そんなのこれっぽちも興味がありません。
だって、大学とは勉強をするところでしょう?
――これが、大家さんに対する私の最初の言葉でした。
恐らく大家さんのことです。
「ここを実家だと思って、なんでも頼ってな」
とかなんとか言って、当時の私はその馴れ馴れしさについかちんときてしまったのでしょう。
大家さんは、これ以上ないほどに顔を引きつらせていました。
ちょうどいい、と彼が次の言葉を発する前に、私は踵を返します。
「し……シェスカちゃん? こんな朝早くからどこに? まだこの時間じゃ大学は開いてないと思うけど」
「決まっているでしょう、朝練です」
「朝練って……魔法の?」
「それ以外にありますか? 私は出来損ないの魔法使いですので、人一倍練習をしなくてはならないのです、そうでなくては伝説級なんて夢のまた夢」
「い、いや志は立派だけどさ……朝飯は? なんなら今からスープ作るけど……」
「いりません」
私はきっぱり言って、イナリ荘を後にしました。
何が朝飯だ、くだらない。
空白級で満足しているあなたの尺度で、私を測らないでほしい。
私には、そんな暇ないのだから。
でないと……
「っ……!」
不意に、くらりと眩暈がした。
まただ、また私の“甘え”が顔を出した。
私はほんの数秒ほどそこに立ち止まって、自らの“甘え”を押し殺す。
「伝説級にならないといけないんです……伝説級にならないと、私は弱いまま……!」
――私の父はひどく厳格な、御伽噺級の戦士でした。
父は、母が身ごもった時に、自らに続く戦士を育てようと楽しみにしていたらしいのですが、赤ん坊が女の子だと分かるなり、落胆を露わにしたそうです。
しかも私はどうやら魔法使いだった母の血を強く引き継いだらしく、戦士適正は皆無、オマケに病弱ときています。
ここまでくると父は、さすがにプランを変えました。
こうなったら、娘を強い魔法使いにする。
仕方ないが、それしかあるまい。
こうして私は、戦士の父から、強い魔法使いとなるための特訓を受けることとなりました。
毎朝、父は日が昇らない内に私のことを叩き起こし、走り込みをさせました。
途中で音を上げたりしようものなら怒号が飛んできます。
それがあまりに恐ろしく、私は倒れるまで走り続けました。
丘を、山を、谷を。
走り込みが終われば、休む間もなくバトルアックスの素振りをぴったり千回。
他にも激流の川へ放り込まれたり、棒切れ一本でゴブリンと戦わされたり……とにかく色々やりました。
しかし、私は父の期待に沿うことはできませんでした。
いくら身体を鍛えても、一向に強い魔法使いにはなれないのです。
それが、父の苛立ちを加速させているような気もしました。
極めつけは私の“甘え”です。
私は頻繁に朝の走り込みで眩暈を引き起こして、倒れていました。
そんな私を見て、父は怒り狂って言うのです。
「――それはお前の精神の“甘え”の現れだ! いつまで経っても強くなれないのも、全てその甘えのせいだ! さあ立て! 寝てたって終わりはせんぞ!」
ああ、そうか、これは私の甘えなのか。
私は納得してまた走り始め、そして倒れ、その度に罵声を浴びせられました。
こういった訓練がひととおり終わると、一日三食、吐き出しそうになるほどの量の黒パンを食べさせられます。
そして日没後はすぐに就寝――
強い魔法は強い肉体から作られるんだ!
父はそう力説していました。
そんなこんなで私は18になりました。
等級認定試験はあと二年後――しかしながら私は未だ魔法使いとしての芽が出ていません。
ひとえに私の甘えのせいでしょう。
ひとえに私の弱い肉体のせいでしょう。
だからこそ、私は頑張って強い魔法使いにならないといけないのです。
強い魔法使い――それはすなわち父をも超える伝説級。
眩暈に苛まれながらも、私は日課の朝練に勤しむべく歩みました。
――ここで、視界が暗転します。
――気が付くと、私は見知らぬベッドの上で横たわっていました。
窓から覗く景色は、すでに宵闇に染まっております。
「――っ!?」
私は飛び起きました。
私は――寝ていたのか!? こんな時間まで!
お父さんに怒られる――!
「おはようシェスカちゃん、気が付いたか?」
しかし私にかけられたのは怒号ではなくそんな優しい言葉でした。
見ると、私の傍らには大家さんの姿があります。
「こ、ここは、私は何を……」
「俺の部屋だよ、シェスカちゃん、心配になってついてきたら道端で倒れてるんだもの」
倒れていた、私が?
ああ、また私の“甘え”が出てしまったのか!?
私は激しく後悔しました。
これで一日分の遅れが出てしまった。
一日の遅れを取り戻すには三日の鍛錬が必要、これもまた父の口癖でした。
「言わんこっちゃない、朝飯ぐらい食わないからこうなるんだ、……ちょっと待ってなよ」
そう言って、大家さんが部屋の奥からある物を運んできます。
それは山盛りになった黒パンの山――などではなく、一杯のスープでした。
「ほら、温めなおしたから、どうぞ」
大家さんはスプーンを添えて、それをこちらに差し出してきます。
私はひどく困惑しました。
「た、助けていただいたことには感謝します……でも私はまだ今日何もしていません」
走り込みも、素振りも、激流に逆らって泳ぐことも、ゴブリンとだって戦っていません。
そんな私が食事をとるなんて、到底許されることでは……
そう思って表情を暗くしていると――不意に、大家さんが私の顔に触れ、両手の親指で下瞼を引き延ばしました。
「えっ、えっ!?」
更に困惑します。
しかし一方で大家さんは納得したような表情で、頷きました。
「……うん、やっぱりシェスカちゃん、血圧低いね」
「け、血圧……?」
「うん、がっつり低血圧、朝、眩暈とかすごいでしょ?」
「なっ……どうしてそれが……どうして私の“甘え”が分かるんですか!?」
「甘え?」
大家さんが訝しげに眉根を寄せて、そして言いました。
「バカ、これは体質だ、生まれつきのもんだ、シェスカちゃんが朝弱いのは甘えなんかじゃない」
「生まれつき……弱い……?」
私は自らの世界がぐらりと揺らぐような心地がしました。
甘えの方がよっぽどよかったはずです。
これは決して治ることのない私の弱さなのか。
そんなのまるで呪いのようなもので……
「……私は、伝説級にはなれないのですか……?」
自然と口が動いていました。
しかし、この問いに対して大家さんは、実にさらりと
「――いや? そんなことはないでしょ、だって朝弱いってことは、夜強いってことだし」
「え……?」
「やり方が間違ってるだけって話、朝に本調子じゃないなら夜練をすればいいじゃん」
そんなこと……そんなこと、父は一度とて言わなかった。
夜は明日の朝の鍛錬に備えて早く寝るものであり、決して、その時間に鍛錬をしろだなんて……
「まぁ物は試しだな、そうだ、火種の魔法を唱えてみなよ」
火種の魔法。
指先に小さな火種を出現させる初級魔法。
それぐらいなら……私は人差し指を立てる。
しかし、大家さんは「あ、違う」と首を縦にふって、自らの指を広げた。
「五本指で同時に、計五つだよ」
「い、五つ!? そんな繊細な芸当、私はやったことが……」
「試してみなって、最悪ベッドをこ、焦がしてもいいから……」
全然「いいから」という顔ではないが……
そこまで言うからには仕方ない。
私は五本の指を立てて、頭の中で詠唱します。
すると――どうだ。
いつにも増して頭が冴え渡っている。
いつも濁り切っていた頭の中が、底抜けに透き通っているのを感じる!
次の瞬間、「ぽん」と音を立てて、私が立てた指の先全てに小さな炎が灯りました。
「成功……してしまいました……」
「だろぉ?」
大家さんが、にんまりと頬を緩めます。
「まあ空白級の俺が言うのもなんだけど、魔法ってのは要するに集中力だからな、いたずらに身体をいじめてどうにかなるもんじゃないんだ、適度なトレーニングが大事なんだよ」
「そう……なんですね……」
「だからほら」
大家さんが再度スープの皿を差し出してきます。
「気休めかもしれないけど食材にこだわった大家特製の低血圧改善スープ、病み上がりだから、これぐらいでちょうどいいだろ?」
大家さんが、優しげに微笑みかけてきます。
私は夢見心地にこれを受け取りました。
そして小さく「……いただきます」と呟いて、スプーンで一口。
――この時私は初めて、食事とは温かいものなのだな、と知りました。
スープを一口、また一口と啜りながら私は考えます。
彼は私が眠っていても、怒声で叩き起こしたりはしませんでした。
それだけでなく、彼は私が目を覚ますと、怒鳴りつけるのではなく「おはよう」と優しく微笑みかけてくれます。
戻してしまうほどの黒パンを食べさせることも
それは甘えだと一喝することもありません。
なら
「美味しい……です……」
――なら、私が彼のことを好きになってしまうのは、当然のことでありましょう。
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