第四回 10
薛蟠と宝釵の母はここ一年というもの馮の公子と薛蟠とのいざこざで、頭の痛む思いをしていた。それは決して比喩ではなく、かの日から、ずんとこめかみのあたりが痛むようになり、ことに湿気の多い金陵の地の、まして雨のしとしとと降るような日には、いっそう重く痛むのであった。
だが、つい昨晩、応天府から薛蟠が死んだことにして、罪を放免するとのお達しが届いたとき、天にも昇る心地がし、日々薬湯を飲む生活もこれで終わりだと、こめかみの痛みもようやく和らいできていたのだった。
ところがそんな日差しも穏やかな朝、表の方から、
「麗しきお母さま! お母さま! お目覚めください」
と呼ばう声がする。愛息子の薛蟠の声だった。可愛い息子のことではあるものの、こんな猫なで声で呼ばれるときにはいつもろくなことがない。重たい頭を抱えながらよろめく足で扉まで向かおうとすると、宝釵が柔らかくそれを制した。
「お母さま、私が出ますわ」
とふくよかな体を揺らしながら扉を開ける。
「哥哥、どうされたの?」
薛蟠は出迎えたのが、宝釵だと知るや急に不機嫌な表情になり、
「宝釵に用があるわけじゃない」
と吐き捨てた。
「お母さまはお具合が悪いの。代わりにまず私が聞きますわ」
「そこをどけ! 俺は母上に……」
薛蟠はどすのきいた顔で宝釵をにらみつけるが、宝釵はがんとして動かない。
「宝ちゃん。いいのよ。私が聞くわ」
母親はそう言いながら、椅子に腰かけ、話を聞く態勢をとった。それでやっと宝釵は兄が通るための隙間を開けた。
「それで? 今日はどんな悪い知らせを聞かせてくれるのかしら?」
皮肉っぽく言う母親に、薛蟠はいたってまじめな顔で答えた。
「私も薛家の将来を案じているのです。悪い知らせなぞではありません」
もったいぶった言い方をするのが、かえって母親に疑心を起こさせる。
「はっきりおっしゃい」
ぴしゃりと言うと、薛蟠は頭をかきながら気だるそうに言った。
「母上、私を都へのぼらせてください」
母親は深くため息をついた。
「めずらしく殊勝なことを言うと思えば、やっぱりそれが目的だったのね。馮家との一件がようやく落ち着いたばかりじゃない。しばらくはおとなしくしておきなさい。それでなくともあなたは死んだことになっているんだから」
「そのことなら大丈夫ですよ」
得意げにしながら、一枚の文をひらひらさせる。
「応天府の門子から知らせが来ました。知事殿の裁きが下ったようです。この度の災いはすべてくだんの人さらいから起こったことである。ゆえに一連のできごともその人さらいがいなければ生じなかった。今回の一件にはその人さらいのみを処罰し、今後何が起ころうともそれ以外の人間は不問に処す、と。さすれば……」
と言いながら母親の前できっ、と顔をあげる。
「私が生き返ってもよいわけでしょう?」
母親も宝釵も薛蟠の変わり身の早さにあぜんとした。
「馮家には十分な金を握らせておりますから、これ以上訴え出るものはおりませぬ」
そう言うやいなや、母親は頭を押さえた。
「鶯児、お母さまに早く薬湯を」
宝釵にそう命じられ、年若い侍女は元気よく返事をする。そのまま湯わかしのもとへと走り去っていった。
「そもそも都に行って何をするつもり?」
母親はきれぎれに言った。
「宮中に入ってもらうのです。金陵の楊貴妃とも名高い我が妹に」




