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紅楼夢  作者: 翡翠
第四回 薄命の女 偏(ひとえ)に薄命の郎(おとこ)に逢い  葫蘆(ころ)の僧 乱(みだ)らに葫蘆(おろか)な案(さばき)を判(くだ)す
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第四回 8

 その日、雨村は夜風にあたりながら眠れぬ夜を過ごした。

 一つにはこんな子どものような手法でうまくいくのかということ、そして何より官としての良心の呵責かしゃくからだった。元来、雨村は根っからの悪人ではなかった。雨村はむしろ誰よりも儒家じゅからしい儒者じゅしゃであり、家を富ますために栄達えいたつもとめるのも、子孫を繁栄させるためにめかけもとめるのも、儒者としては決して間違いではなかった。だが、彼の儒者としての唯一かつ最大の欠陥けっかんは、優秀な儒者が人並みの悪心あくしんを持っていたことだろう。なお、苦しいのは彼が人並みの良心を持っていたことであり、それがために枕を転がすようなひりつく一夜を過ごす羽目になるのだった。

 翌日、日が昇るまえに密室ちじしつに向かうや、開口一番、鯫生にこう尋ねた。

「馮家の家人けらいたちは先の裁定さいていを不満に思っておらぬだろうか?」

 鯫生は嘲笑あざわらうように言った。

「まったく。馮家は家人けらいも少なく金を欲している連中ばかりです。昨日お裁きがくだった後に、薛家をかいして、葬儀費用の名目で相応そうおう金子きんすをばらまかせました。もし家中かちゅうに何かしらの不満があるとすればすでに出てきていることでしょう。老爺あなたさまの前途ぜんとと同じく安泰あんたいにございます」

「そうか」

 雨村は安堵あんどともなげきともつかぬため息をついた後、栄国府えいこくふ賈政かせい京営節度使けいえいせつどし王子騰おうしとうへ簡潔に「甥御おいごの件は決着いたしました」という内容のふみつづった。

 そのさなか、やおら鯫生に、「もう下がってよい」と伝える。めてもらえると思っていたであろう鯫生は怪訝けげんな表情をしながら下がっていった。

 文を書き終え、雨村は物思いにふける。

 人とは不可思議ふかしぎなものだ。あの英蓮に親子かと見まごうばかりの情愛じょうあいを示した鯫生が、今は畜生ちくしょうのごとき邪心じゃしんをあらわにしている。

雨村は、人間は元来悪であるという荀子じゅんしの言と、善であるという孟子もうしの言を頭のなかで天秤てんびんにかけ続けていた。


 一方、鯫生は雨村からそれなりに冷たくあしらわれたにもかかわらず、ほくほく顔で密室ちじしつから帰路きろについていた。自分はこの新しい知事ちじに対して功を立てたばかりでなく、弱みも握っているのだ。彼にはもはやどう転んでも明るい将来しか見えなかった。

 鯫生はすでに貴人きじんになったかのごとく、庁内ちょうない闊歩かっぽしていた。つい先日まで同輩どうはいだった下級官かきゅうかんたちもはしために見える。

 下萌したもえの若草が薄い靴を撫でてゆく感覚も心地よい。

 俺にはさえぎるものすらない。そんな気さえする。浮かれた気分で、自らが守っていた門をくぐろうとすると立ちはだかる者があった。

 苛立いらだちを隠せないまま目をらしてみると、初めに訴えをもちかけた馮淵の愛童あいどうであった。

 愛童は一介いっかい門子ドアマンである鯫生に這うように叩頭こうとうすると、

小生わたくしはやはり昨日さくじつのお裁きには納得いきませぬ。どうか知事様にもう一度やり直しをお願いしてくださいませ」

「知事はお忙しいのだ。些事さじわずらわされているひまはない」

「承知しております。ならばこそ貴兄あなたにお願いしているのでございます」

 なおも頭をこすりつけるのに、鯫生は振り捨てるかのように門を通り抜けようとする。それを童がさえぎる。それが幾たびか繰り返されたのち、童はふところから小刀こがたなを取り出した。

 ここにいたってようやく鯫生は自分が一人の門番であることを思い出す。

 唇が震える。鯫生が助けを呼んだとて、助けてもらえるかどうか分からない。現に門前に立つ兵も固まったままである。自分の命をすほどではないと思っているのかもしれない。あるいはただ単に足がすくんでいるだけかもしれない。いずれにせよ、鯫生の命が消えてしまうという事実は変わらない。鯫生はあきらめのつかないまま、目を閉じた。

 生ぬるい感覚を皮膚ひふへ感じて薄目を開けると、門前が血に染まっていた。その血だまりの中、童が横向きに倒れていた。

 彼の死をさとると、鯫生は権力を持つものの姿に戻り、「老爺だんなさまが気づかれる前に片付けておけ」と門番に命じた。

 力を持たぬ者の死を目に焼きつけ、言いようのない高揚感こうようかんが鯫生を包んでいったが、このころの彼は幾月いくつきを経て、雨村に罪を着せられ、遠く巴蜀の地へ流されることになるとは知るよしもない。


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