第一回 3
――太古の昔、神の憤りにより、大陸の東南の地がへこんだというが、その片隅に姑蘇はあった。姑蘇の、紅塵でも富貴なるものが住まう閶門はいつものように商人が行き来し、出店を開いたりなどして賑わいを見せていたが、そのはずれ、十里街という街の仁清巷というせせこましい小路を抜けると、葫盧廟と呼ばれる廟があり、そのすぐ近くに甄士隠は住まいを構えていた。
彼の一族は爾来ことさらに富貴であったわけではない。だが、地元の名族である士隠を人々は敬っていた。それでも士隠はその地位におぼれず、腰を低くして彼らに接したため、彼はさらに尊敬を集めた。
人々は彼の篤実さのなせるわざだとして疑わなかったが、科挙全盛の時代にあって、士隠は官吏となって出世しようなどという野心をもたなかった。庭にあっては花を見、山にあっては竹を植え、詩を吟じながら酒を飲む。人間の世はそれで十分だと思っていた。甄費の不思議、と心無い俗人は彼の諱を使って陰口をたたいたが、士隠はまったく意に介するところはなかった。
ただ一つ、彼に息子がいないことだけが心に懸っていた。御年五十になる彼には三つになる娘がいる。幼名を英蓮といった。遅い時期の子であった。
だが、それとて一族の他の者から折に触れて男子はまだかとつつかれ、新たに妻を嫁してはどうかといちいちわずらわしいので、ほんのときおりそう思うだけで、ふだんはそれも忘れてしまって晴耕雨読、いくばくかの酒。自身はそんな仙人のような暮らしができれば十分だと思っていた。
蒸し暑い夏のことである。士隠はごろりと書斎に寝ころび、それに目を通していたが、暑さのためかそれもおっくうになり、書を手放してとろとろと眠ってしまった。
そこがいずこかは分からなかった。僧侶が一人、道士が一人、歩いてくるのが見える。その会話につい聞き耳を立ててしまっていた。
「それで君はその懐の愚か者をどうするつもりかね」
道士がだるそうにたずねた。
「ご心配なく。ちょうどある天上の恋に決着がついたところなのだ。その者たちはそれに飽き足らず、紅塵の世界を求めながらまだ次世の転を果たしていない。そこで、この愚か者をそこに押し込んで、望みどおり紅塵の見聞をさせてやろうと思っている」
道士は嘆息した。
「へぇ、近ごろの色恋ときたら天上に飽き足らず紅塵までも持っていくというわけか。因果なことよ。それでどこに生まれ変わらせるつもりだい?」
「それが悩みどころなんだ。なにぶん例のない話なもんでね。西方は霊河の三生石のかたわらに絳珠草という草が生えていた。そのとき赤瑕宮に神瑛侍者と侍者がいて、毎日毎日絳珠草に甘露をあたえたおかげでかの草は命を永らえたのだ」
「その交情が君の言った天上の恋というやつか」
僧侶は首を横に振る。
「それだけではない。絳珠草はもともと天地の清華を受けていた上に、日夜甘露を浴び続けたゆえに草木の姿を脱して人間へ、女性の姿へと変わったのだ」
士隠はふっと物陰に身を隠した。彼らが話しているのは人間の話ではない。胸の動悸がゆっくりと高鳴っていく。
「ほう。たしかに君の言うとおり例のない話ではある」
「それだけで済めばことは簡単だったんだがね」
今度は僧侶の方が嘆息した。
「その神瑛侍者が紅塵へ行ってみたいという気を押さえられなくなったのさ。幸か不幸か世は天下泰平。警幻仙姑のお許しもすでに得た。そうなるとこれまで離恨天の外に遊び、蜜青果を食べ、潅愁海の水を飲んで日がな過ごしていた絳珠草も黙ってはいられない。警幻仙女に私も下界に降ろしてほしいと頼んだのだよ」
「ほう、どんなふうに」
「私はあの人に恵んでもらった甘露のお返しができておりません。あの方が下界に降りられるのに合わせ、私も下界に降り、一生分の涙をお返ししたいと思います、と」
「涙で返すとはおつなもんじゃないか。たしかに類例がない。これは面白くなってきた」