第一回 1
浮生は甚だしき奔忙に着き
盛席の華筵も終には散場す
悲喜千般幻泡に同じ
紅袖に啼跡重しと言うなかれ
字字看来たれば皆是れ血
十年の辛苦尋常ならず
太古の昔、女媧氏が大荒山の無稽崖という高さ十二丈、四方二十四丈余の広大な場所で三万六千五百一個もの礫石を鍛え、天の綻びを繕ったがそのたった一つだけを使い残し、青埂峯の下に無惨にも捨ててしまった。
ところがこの石は神聖なる女神に鍛錬されたことによって霊性を備えたものになり、かの神に捨てられてからは歩いたり、大きくなったり小さくなったりと自らの硬質な体を弄んでいたが、やがて自分だけが天の縫合の役に漏れたことを悔しいとも恥ずかしいとも思って、夜も昼も泣き悲しんでいた。
この哀れな石がこれからときには姿かたちを変えながら語り部となっていく。そのためこの一連の物語を題して「石頭記」とも言うのである。
さて、哀れな主人公であるこの石は、鬱鬱と日々を過ごしていたが、あるとき遠くからいかにも高貴な僧侶と道士が何事かを話しながら連れ立って歩いてくるのが見えた。もとより孤独を持て余していた石が草叢に隠れながら耳を澄まして聞いてみると、初めは天上高き仙界のことについてああでもないこうでもないと談笑していたようだったが、やがて話が下界の富貴栄華のことにおよぶと、かの石は崇高な仙界の話よりもむしろ俗の方に心が惹かれ、じりじりと二人の方に近づいていくのだった。
二人の話は絶えることなく深まっていく。煌びやかな家屋、豊かな食事、美しき女性の姿、そして男女の交わり……。矢継ぎ早に繰り出される心惹かれる下界の話に石はいてもたってもいられなくなってしまった。隠れていた草むらから飛び出して、ひょいと高僧の掌の上に乗り上げてしまったのである
「おやおや、これはどうしたことだろう」
僧はいたずらっぽく、連れ合いの方を向いた。
「ははーん」
道士も意味ありげな微笑みを返す。
「こやつはかの女神の余りものらしいぞ。余りものは余りものらしくうち捨ててやるか」
「待て、待て」
僧が道士を押しとどめる。
「余りものとはいえ、御神の鍛えられた石じゃ。無下にしてはならん。それにこの石もどこか見どころがありそうではないか?」
「そうかのう」
道士は友人へ反論するように首をかしげる。
「わしには碌な石ころじゃなさそうに見えるが……。吉凶定かでないものは捨ておくに限る。いかようにしても業がつきまとってくるでの」
「仮に君の言うとおりだったとしてもだ。こやつもただ徒に我が手に乗ってきたわけではあるまい。心なしか何か言いたげにも見える」
「何を言いたい」
いぶかしげに高僧を見やる道士。
「なぁに。少しばかりこやつの口をきけるようにしてやろうかと思っただけだ」
「やはり、そんなことか」
道士は肩を落とす。
「手出しをしても碌なことにはならんよ。こんな俗心の塊には無為を施すにかぎる」
「俗心? 君にはそう見えるのかね」
「じゃあどう見える」
「拙僧にはひどく美しい石のようにもひどく汚い石のようにも見えるね」
「そら見ろ! そんな石には口を開くひび一つ与えてはならん。貴僧にはその責を負えるのかね?」
「そりゃ無理ってもんだ」
僧はあっけらかんと言い放った。
「この石が何を嘯こうが拙僧の知ったことではない」
道士がぽかんと口を開ける。
「ただ少し興をもよおしただけだ」
「勝手にしろ!」
道士はむくれながら胡坐をかく。
その友人の様子を横目に見ながら、僧は一度、二度と石の表面をなでる。
「ほら、良いぞ」
その僧の言葉が終わるが早いか石は弾けるように話し出した。
「御二方のお話お聞きしておりました。わたくしは見てのとおり、何のとりえもないただの石ころでございます。ただその中身については少しばかり恃むところもございまして、お二人のお話を聞くにつれ、下界の栄耀栄華というものがすこぶる慕わしく思うようになりました。お願いです。わたくしをぜひとも紅塵へとお連れくださいませ。もしそれが叶いますれば未来永劫ご恩を忘れることはありません」
ほらな、という様子の道士。ひるがえって僧侶は泰然としている。
「良きかな。良きかな。そなたが下界にあくがれるのを止めることはできん。だが、紅塵とは美しきことばかりではないぞ。そして永遠でもない。『美中足らず、好事魔多し』と言ってな……」
そんな僧の忠告も猛りだした石には届くことがなかったらしい。
「かまいません」
その断ち切るような石の言いように、道士もようやくあきらめがついたようだった。
「これも静極まりて動を思い、無中有を生ずるというやつであろう。であれば是非もない。存分にその栄華を味わうがいい」
それまで冷たかった道士の言葉に無骨な石がきらめくようだった。
「だが、後悔するでないぞ」
「無論でございます」
「とはいえ、その姿ではあまりにも無骨にすぎよう。拙僧が少しばかり仏法を施すこととしよう」
僧侶がお札をすらすらと書き、印を組むとあの石ころが美しい、扇子の根付ほどの大きさの透きとおった宝玉へと変化を遂げた。
僧はその玉を手のひらに転がし、笑いながら、
「これで形は立派なものになった。これでそなたを見くびるものはあるまい。富貴栄華の果てへと連れていってやろう。宿劫の終わるその日まで」
「その富貴とは、栄華とはいかようなものでございましょうか?」
美しく変化を遂げた石に僧侶は哄笑するのみで答えない。
「それは自然と分かることだ」
そう静かに言い、宝玉を袖に入れると、道士とともにいずこへか立ち去っていった。