「元魔法少女と漢字の書取り」
「ただいま」
防犯用にリンリンと音の鳴る、シンプルなパイプチャイムが取り付けられたドアを開ける。そこに「ただいま」という言葉があれば、音は帰宅の合図になるわけだが、今日は空振りに終わった。
「アヴァへ パパの講義に遊びに行ってます」という書き置きがあったのだ。いつもなら夕飯の支度までダイニングルームのソファでゴロゴロしているはずのぐうたらりんなママが(パパが早く帰ってきてご飯を作ってくれる時は、それこそ永遠にダラダラしている)、どういう風の吹き回しで不要なはずの外出をしているのかは不明だが、仕事中のかっこいいパパに会えるとは羨ましい。
ああ、言ってなかったかもしれないが、私のパパは大学教授だ。最寄りのバスターミナルから六つ先の、この街中心地にある大学に勤めている。で、ママはパパの准教授時代の生徒だったらしい。
まだ中学生になったばかりの私よりも小柄なママと結婚したとき、学生の間でロリコン疑惑が炸裂したのだと、パパは引き攣った顔で密かに教えてくれた。
外出の理由は大方、大学生の概念的な生命力に自らを晒すことで、若さを保とうアンチエイジングしようという浅はかで馬鹿なモチベーションだろう、などと考えながら階段を上がり、自分の部屋の半開きな扉を押す。
「あ、おかえりみう」
「ただいま。またマンガ読んでるの? 仕事とかないの? 王子なんでしょ?」
「み、見られてないところでやってるしー」
「ダウト」
こいつ。朝からずっと読み耽っていたな? 不健康に老けていきそうな生活を、このマスコットはやってきてからずっと送っている。
制服からジャージに早着替えして、勉強でもするかと勉強机に向かう。だがしかし、勉強しようと机に向かって実際に勉強する割合は20%を切ってしまう私だから、早々に紙に落書きを始めてしまった。
しゃっ、しゃっ、しゃ。
「あっミウイのこと描いてくれてるみう? うまいもんみう〜」
「まさか。自意識過剰。あなたがこんなにイケメンなわけないでしょ? ミンミンよ」
「めっちゃグサッてきた」
心臓を抑えてつんのめるミウイ。心が晴れやかになる姿だ。
事実、今日の昼頃からモヤモヤと揺蕩う、病気じゃないかと弱気になりそうな胸の蟠りが、幾分かはマシになった。俗に言う、心の傷転嫁セラピー。
それでもやっぱり、完全には消えてくれない。
「あの少女は、本当にヒダカなの?」
ミンミンを描く手を止め、くるりとシャープペンを一回し。
動かぬ証拠と誰もが納得する動機があって、ドンピシャリと決まってしまったわけではない。髪の印象が一致したというだけ。真夜中の長髪少女が本当に夜の怪人発生の首謀者なのかも、まだ分からない。
だとしても。
「現場に必ずいるとか、髪だけじゃない」
ヒダカが休んだ時だけ、夜に怪人が出てきていない……木金土と彼女は学校にいなかったわけだけれど、それらの翌日の未明には、怪人は現れていないのだ。
偶然か。はたまた、必然か。
提示された二、三の状況証拠が、ヒダカを輪郭から灰色に、かつ朧げにしていく。身体測定で勝負して、よく話すようになった友達が、遠くに離れていくような心地さえする。
容疑は不正確で不明確だが、「かもしれない」という呪縛は、彼女を際限なく怪しくしていく。そう言えば、ヒダカは同年代の中でトップクラスに運動が出来たなと、また疑うポイントが増えてしまった。
本当に、犯人だったらどうしよう。
「戦わなきゃ、ダメなの?」
先生は、魔法少女の使命から外交を連想した。どれだけ倫理を逸していても、国同士の問題しかり、脅威となる存在の出現しかり、必要悪で、解決しなければならない。
それが怖い。たまらなく恐ろしい。
時計を見る。午後四時。夜はまだ来ない。
このまま来て欲しくない……全力でとある魔法を行使すれば、無為に「その時」までを引き伸ばすことは可能ではある。
でもまったく意味はなく、臆病による先送り以上のものではなく。
茜かミンミンに知られれば、「情けない」と罵られたのち、きっと張り手を食らわされる。
「……向き合わなきゃ」
「さっきから悩んでいるようだけど、どうしたみう?」
言葉のナイフで心臓を突き刺したはずのミウイが、いつの間にか再起動していた。ぬぼーと浮上し、背後から不思議そうに尋ねてくる。
「私の後ろに立つな。つい殺してしまいそうになる」
「Killer☆Killer☆を引きずらないでっ!? もう3話も前みうよっ!? というメタいツッコミはさておき、夜の不審な少女、もしかして正体に見当がついたみう? 妖精族のネットワークでなぜか検索出来ない、あの女の子の」
「……」
こいつにしては鋭いな。続きの漫画を取り出そうと無理に引っ張ったら本棚が倒れてその下敷きになっちまえと呪いつつ、マスコットを無表情のまま睨みつける。「無知蒙昧難聴サボり魔王子キャラではなかったの?」と首を傾げた。
「それは違うと主張したいみう。さすがにそこまでキャラを盛るほど厚顔無恥ではないみう」
「どうだか。少なくともサボり魔は合ってるはず」
「うっ」
動揺するミウイ。無知蒙昧というフレーズもよく似合っているが、言わぬが華だろう。
こいつのぼんやりした表情が、何よりも雄弁に語っているから。
「あなたがサボり魔で無知で蒙昧でバカでアホでドジでマヌケといえばの話だけれど、最近昼間は漫画ばっかり読んで全然仕事していなくて、それでホントに大丈夫なの?」
「悪口のオンパレード押し付けんなみう。ミウイはそんな愚か者の大罪の宝箱ではないと自分を信じているみう。盲信しているみう」
「自分で盲信って言った」
「ゴホン、とにかく。ここのところ、昼間出てきてる『遺禍』は、橘和美レベルの魔法少女で十分対応なんだみう。この街にはアヴァ以外に、橘含め三人魔法少女がいて、全員似たり寄ったりみうが、まあ大丈夫みう。適材適所みう」
「ふーん」
つまり、橘さんと他二人の魔法少女で、日の出ている内は回しているというわけか。「そうそう。その二人はともに中二……いや、一人は中一だったかな? 近くにある共学の公立に通ってるはずみう」と、補足が入る。
「会ってみたいみう?」
「やめとく」
人見知りなので。それに私は「元」魔法少女であると断固として言い張っており、現役に対して特に仲間意識はない。金をくれるなら話は別だが。
会話が途切れたので、真面目に机と対面することにした。取り出した鉛筆で、再びくるくるとペン回しをしようとすれば、軽過ぎるせいか指から抜け落ちる。本当はシャープペンでやりたいのだけれど、しかし先生からのお達しにより、使いにくい鉛筆を使うことになっているのだ。
はあと溜息を漏らしつつ、「漢字練習帳」を開く。そこには、国語の先生から「練習せよ」と指令を下された漢字が、一文字ずつ二行ごとに、行頭に並べられている。
このリーダーシップに溢れた見栄えのする字に続く形で、同じ字だが詰めの甘い量産型の練習を繰り返す、子どもの腱鞘炎の温床たり得るスタイル。
「えっと。緑……じゃなくて『縁』か」
縁、縁、縁、縁、縁……縁と。
縁、か。
「いっそ、ヒダカと友達になってなければな」
縁は「えにし」とも呼ぶが、これは縁を意味する「えに」に、意味を強調するらしい助詞なる「し」を加えたものらしい。まだ眠くない二限の時間に、国語の先生が雑学チックに語っていた。
人見知りな私にとって、細々とした縁ですら得難く、況してや「友達」なんて望むべくもない大切な縁なのだけれど。強調したいほどの繋がりは、絶対に失いたくないものの代表格であると、茜という親友との悲し過ぎる別れで、よく思い知ってるので。
「茜……ミンミン……」
失ってしまった縁に縋り付き、記憶の虚像に頼ろうとすれど、ないものねだりなど出来るはずなく、ただただ虚しい。
友達と敵対するかもしれない、対決せねばならないかもしれない、場合によっては引導を渡さなければならないかもしれないことに、胸は苦しく、焼け焦げそうになる。
「縁のエンド。なんちって」
しょうもな過ぎるギャグに、無表情を崩さぬまま涙をこぼす。ポツポツと紙に落ちて、折角の漢字が大きく歪んでしまった。
本当に、最初から友達でなければ。
文脈は思い出せないけど、いつだったかパパも言ってたな。
Without the start, there were no end.
だから、始めない方がいいこともある。
擦れ切った人生への諦めの極致みたいな言葉だけど、忘れたい過去をぶつ切りにして置いていくためには、こういう諦めこそ重要なのかもしれない。
ポンと、肩に小さな手が乗った。事情が分からずとも、説明して欲しそうな顔をして、されど私が悲しんでいるのだけは察しているのか。
ミウイのくせに生意気なと思わないでもないが、それを口に出すことなく、手の触れられている感覚に、ほんの少し甘えることにする。
さすればほんのちょっと落ち着き、涙を拭って黙々と、漢字の書取りを再開した。
アヴァは私立の女子中に通っています。