匂い袋
二人はササラと別れると、市場を抜けて森に入った。菊池が幕多羅に初めて来た時、一人で待たされていた小川がある場所だ。広葉樹の高木が生い茂り、日の光が木々の隙間から顔を出す。光に作り出された影が、低木の茂みや樹根、倒木に立体感を強調していた。レイヨは小川の傍に座った。
「タカヨシ、膝枕してあげるよ。おいで」
「いいよ。恥ずかしいから」
「そんなこと言わないの。初めてって訳じゃないし。タカヨシはやりたくないの?」
「い、いや・・・」
菊池は彼女の言うとおりに太ももに頭を載せた。
サラサラと流れる川の音。カサカサと葉や枝が擦れ、軋む音。その間に生活する動物の音。湿度が上がっているが気温は低く、居心地が良い。適度な湿度は森の匂いを強くしていた。匂い、そう匂いだ。大地の、腐葉土の、木々の、動物達の匂い。そしてレイヨの自分を抱擁するような匂い。とても懐かしい感覚が彼を包んでいた。こちらで目覚めてから、匂いに敏感になったような感じがした。これもAELウィルスのせいなのか?それともウェットスリープの副作用か?
彼は上を向き、彼女に話し掛けようとしたが、彼女は彼の口を掌で軽く塞いだ。大きな胸の間から見える彼女は、眼をつぶり、まるで瞑想している様だった。時間が穏やかに流れていった。
暫くしてからレイヨが彼に話しかけた。
「そろそろ祭が始まるよ・・・。行こうか」
菊池がレイヨの膝から頭を上げて起き上がると、鼻の前に赤い小さな袋があるのに気が付いた。レイヨが彼の前にぶら下げていたのだ。袋からは花の香りが漂ってきた。ラベンダーに近い、スッキリとした香りだった。
「これ、あげる」
菊池は袋を受け取った。
「これは?」
「匂い袋。私が作ったんだ。いい香りでしょ?」
袋には『タカヨシ/レイヨ』と下手な西暦風の書体、菊池が教えたものだが、が刺繍されていた。彼は再び鼻に袋を近づけてみた。袋はゆるやかな風を受けて、清涼な芳香を振りまいていた。
その頃、黄持と仏押は研究員の報告を聞いていた。
「・・・これらのことから、彼は成人後に感染したものと思われます。そのアエル細胞は我々のものと同種でありながら、全く異なるものでした。渦動の収穫効率は、実に20倍にもなります」
仏押は質問した。
「彼からアエル細胞の分離や移植は可能なのか?」
「いいえ。ご存知の通り、我々の技術ではアエル細胞の移植は不可能です。細胞をそのまま投与してもすぐに排除されてしまい、意味はありません。それに理論的には、アエル細胞の形成には不可視生物の感染が予想されておりますが、ヒト以外にはアエル細胞は形成されず、実験動物による研究ができません。人体実験をしようにも、我々は感染済みです。彼の不可視生物は我々と同種と考えられますので」
「胎児ではどうだ?」
黄持が尋ねた。
「出生時にはすでに感染しており、わずかながらアエル細胞を持っていますので無理です」
「適応者は?」
「そもそも適応者はアエル細胞を持っておらず、不可視生物に反応を示しません。幕多羅の女を見てもわかるように、菊池の不可視生物も適応者には感染しません」
「うーむ。あと残された手は、『子殺し』の子供か・・・」
仏押は天井を見上げた。『子殺し』の組み合わせは忌み嫌われており、近親婚以上にタブー視されていた。
近親婚、近親交配では、両親の遺伝子が似通っている場合は、遺伝的に潜性(劣性)の遺伝子を共に持つ可能性が高いために、特殊な疾患を発症しやすくなる。潜性遺伝子が全て負の形質(病気など)を持つわけではないが、重い疾患が発現するリスクが高まることに変わりはない。有名なものでは、スペイン・ハプスブルク朝の例がある。彼らは誤った優性意識から近親婚を繰り返した。潜性遺伝子の発現により虚弱体質者が増え、早世のために世継がなくなり、17世紀末に断絶した。この誤った優性意識はいつの時代にも消えることはない。
仏押はふと思った。
そうか、彼らも『子殺し』か。
一同が解散すると、黄持が仏押に近づいてきた。
「仏押さまの予想どおり、庵羅が横槍を入れてきました」
「うむ。やはりな。手立ては?」
「回学院には探索組を入れています。何かあっても、菊池にはキネリを付けています。彼女なら上手くやってくれるでしょう」




