漢字
レイヨと言う名の女性は、ショートカットの金髪を蓄えた美しい女の子だった。20歳ぐらいだろうか。堀が深く、眼がかなり大きくて、瞳は黒よりは茶色に近い。顔立ちは日本人離れしていて、東欧系のハーフなのかもしれないと感じた。菊池は彼女の名前を聞いた後、更に質問を続けた。
「誰かに会わなかったかな。他の人はどこに行ったのか知らないかい?」
彼女は首を横に振った。そして相変わらず、菊池から目を離さずにじっと睨みつけていた。逃げ出す様子はなかったが、警戒しているのは明らかだった。今走って逃げられたら、彼には追いかけることはできないだろう。怖がらせてはいけない。ここには彼女しかいないのだから。
「君、この辺に住んでいるの?」
彼女はコクリと頷いた。
「それはどこ?なんて町?」
しかし彼女は何も答えてはくれなかった。緊張した空気が流れた。
「そ、そうだ、レイヨって名前、どういう意味?」
彼はやや大げさに両手を広げ、少しく軽い感じで尋ねた。
「・・・お婆ちゃんが付けてくれたの。神様が護ってくれるようにって」
やっと彼女が自分から話してくれ、彼は嬉しくなった。
「へえ、そういう意味があるんだ。とてもいい名前だね」
「あなたは?」
「僕?僕は父が付けた。どっかの神様の名前らしいよ。余っ程良い人になって欲しかったんだね。名前負けかな」
菊池は床の埃に、ゆっくりと自分の名前を書いてレイヨに示した。彼女は漢字を理解していた。『菊』という漢字は難しいのか首を捻っていたが。
「漢字、分かるの?」
「うん。少しだけ。この字は偉い人だけ使うから。でもすごくいい名前ね」
「ありがとう」
菊池はその後も幾つか漢字を書いて見せたが、彼女は小学生レベルは読むことができた。一部で読み方が違うものもあるようだ。アラビア数字は理解し、アルファベットも知っていた。ローマ数字やギリシャ文字は駄目だった。
この娘は、日本人ではないのかもしれないと彼は思った。言葉は日本語だが、時々意味の分からない単語がでてくる。向こうもこちらの会話に当惑している様子だ。それに『α』を知らない日本人は、まずいないだろう。付近に帰化した外国人の街があるのかもしれないが、この東京感染症研究所がある日野市については何も知らなかった。しかし『α』を知らない外国人も少ないと思うが。
「肩は大丈夫かい?」
菊池は包帯を巻かれた彼女の左肩を指差した。
「うん。大丈夫、貴方が治してくれたんでしょ?貴方は医術師さん?」
「医術師?前に言った通り僕は外科医だよ」
「げか?」
彼女には通じていなかったようだが、一向に気にする風でも無かった。
「貴方こそ大丈夫?なんか辛そうだけど?」
「心配してくれてありがとう。僕は大丈夫だよ。そろそろ動き回れそうだ」
彼女は初めは緊張していたが、ゆっくりと打ち解けてくれているように菊池には感じた。しかし今の年月日やここで起きたことになると口ごもった。彼女が何かを知っているのか、知らないのかは分からなかった。
彼は身体が回復したらさっさと出口を探して脱出したい衝動に駆られていたが、この女性と周囲の状況から、まず自分に何が起こったのかを調べた方が良いだろうと結論づけた。これから、更に大きな問題が自分に降りかかってくるような、嫌な予感がしたのだ。
当然、彼女からもっと情報を引き出す必要があったが、あまり強引にして怖がられるのはまずいだろう。ゆっくりと行う必要がある。それに彼には調べなければならない事が他にも沢山あった。
まずやらなければならないのは、あの死体だ。
彼は今まで、毛布の下の死体を調べる気にはならなかった。だが、やらなければならない。こいつが、今置かれている状況に関係無いわけがないのだ。菊池は座りながら毛布を弄んでいる女性に話しかけた。
「少し、あそこの奴を調べるから、君はここにいてくれ。心配しなくて大丈夫だから。いいね?」
女性は大きく頷き、顔を強張らせた。彼はゆっくりと部屋の隅に近づき、かけてある毛布をおもむろにはぎとった。
「うっ」
彼は思わず口元を覆った。




