ストレッチ
覚醒した時、菊池は全身の力が入らず身動きもままならなかった。特に足の裏は浮腫んだような違和感があり、体重をかけようとすると痛みさえ感じ、まるで自分の身体ではないようだった。座ることはできたが、それ以上動くことができない。
通常ならパニックに陥ってもおかしくない状況だったが、不思議と彼は落ち着いていた。この後の自分の身体の変化も、今から自分が何を為すべきかも解っているような気がしたからだ。
先ずは眠ることだ。
彼は睡眠不足だった。
菊池はそばに倒れている女性の脇に横になると、直ぐに穏やかな深い眠りに堕ちていった。
数時間の仮眠後、彼はウェット・スリープ室の壁のスイッチを入れた。天井に仕込まれているLEDライトが一斉に灯り、彼はたまらず眼を庇った。久しぶりの光に、視界はホワイトアウトし、涙が溢れ始めた。部屋の照明はそれ程明るくはなく、どちらかと言えば薄暗かったが、彼にはまるで太陽に焼かれたように感じられた。
15分ほどで視界が戻り始めた。そして彼は下肢のマッサージと全身の関節のストレッチを丁寧に行い、一時間もするとつかまり立ちが可能になっていた。明らかに異常な回復力だったが、彼はそれを異常とは思ってはいなかった。
彼は倒れている女性の状態を確認した。目立った外傷も無く、心配はいらないが、肩に傷を負っているようだ。整形外科は専門外だったが、骨折や脱臼はしておらず、腫れも大したことはない。捻挫だろう。救急セットの包帯で肩を固定して毛布をかけてやった。その間、彼女は全く眼を覚まさず、ムニャムニャと心地良い寝息を立てていた。
彼女の処置を終えると、部屋の隅に乱雑に転がっていた食料保存用ボックスを開けた。大きめのクーラーボックスのような作りで、彼は左右のハンドルを回してボックス内の減圧弁を開放した。プシューっと空気の吹き込む音がしたかと思うと、箱の蓋が、まるで自動ドアのようにゆっくりと上にせり上がってきた。中には様々な種類の保存食が整然と保管されていた。彼はその中から半消化経口栄養食を取り出すと、夢中で飲み始めた。ドロリとした甘いお粥のような食感で、決して美味くはなかったが、喉のヒリヒリ感がかなり解消された。どのぐらいの時間が経っているのか分からなかったが、ボックス内のものはどれも問題はなかった。
食料の保存は、簡易保存ボックスの発達で飛躍的に長期化したのは知っていた。この保存用ボックスは、電源不要で100年の保存に耐えられることを売りにしていた。当時は100年なんて、どうやって調べたのかと疑っていたものだ。
そしてハイバネーション・スーツを脱ぎ、そばに落ちていたスクラブに着替えた。ふと壁に備え付けられていた流しの鏡を覗くと、彼は思わず苦笑いをした。髪は伸び放題で、頬のこけた顔一面に髭が生えていた。手で髭をなぞると、まるで髪の毛のようだった。
「これじゃなあ」
彼はそばのキャビネットを開けてステンレス製の剪刀を取り出すと、髪を切り始めた。オペで使われる剪刀の切れ味は素晴らしく、シャキシャキと毛を簡単に切り落としていった。髭もある程度切り揃えると、ようやく馴染みの顔が現れ始めた。
人間というのは不思議なもので、慣れたスクラブに着替えて髪を整えると、周囲の状況を確認する余裕が生まれ始めた。ウェット・スリープ室は天井の弱い光で照らされ、薄暗かった。LEDの多くが切れているようだった。床には備品があちこちに散らばり、薄く埃が積もっていた。部屋の中央のポッドは3つとも蓋が開いていて、中央の2番ポッド、菊池が入っていたものだが、の周囲は溶液で汚れていた。この研究室は自分を残したまま放棄されたようだった。彼はすぐにでも外に飛び出して行きたかったが、まだ足腰がおぼつかないし、目の前の娘を置いていくわけにはいかない。
次に、さっきから気になっていた異臭の元を探りはじめた。鼻は徐々に慣れてきてはいたが、タンパク質の腐敗した臭いは生物にとって一種の危険信号であり、無視する訳にはいかなかった。
この部屋には扉は2つあった。1つは奥の閉まった扉。もう1つはその反対側にある、彼女が入ってきた分厚い扉で、扉のすぐ傍らに毛布が置かれていた。臭いはそこから放たれているようだった。
彼は毛布に近づいていったが、1メートルほど手前で立ち止まった。毛布から伸びた二本の足が見え、直ぐにそれが何であるかを察したからだ。
ヒト、それもかなり腐敗した死体だ。
その上にかかった毛布が、辛うじて現実から切り離してくれていた。彼はまるで凍りついたように、じっと死体を見下ろしていたが、それ以上は近寄ることはせず、そのまま女性のそばに戻った。今の彼には毛布をめくる気力はなかったからだ。
そして疲れた身体を休めるために、壁にもたれかかって座ると、そばにあった経口食をくわえながら、今までの記憶と状況の整理を始めた。一体何がおきているのだろうか。眼を瞑ると、一つの顔が思い出されてきた。
「沙耶・・・」
そして数時間後、彼女は眼を覚ました。




