後編
さらに日が経過した。
すでに旅をするに問題はないだろうという程度まで私の怪我は回復していた。
だが、私は未だこの砦から出て行けずにいる。
理由は……自分でもよく分からない。
助けられた礼が出来ていないからかとも思ったが、どうにもしっくりとはこなかった。
未練でもあるのだろうか。
この穏やかな場所に。あの臆病なオーガに。
けれど、私はここでは完全な異物だ。
いるだけで平和を、平穏を、乱す存在だ。
どんなに理由をつけて旅立ちを先延ばしにしようと、完治してまで世話になるわけにはいかないだろう。
「おっと」
「ッグォ!」
考えに耽って、気配を探ることを忘れてしまっていた。
オーガはようやく私が危害を加えるつもりがないことを理解したのか、それとも単に慣れたのか、砦内でばったり出くわしても軽く肩をビクつかせ小さな悲鳴を上げるだけに止まるようになっていた。
箒を持っているからには、掃除をしていたのだろう。
邪魔をするつもりもないので、謝罪代わりに片手を上げ、そのまま横を通り抜ける。
風でも浴びるかと、のんびり中庭を目指した。
ふと、砦の外に見知らぬ気配を感じ、私は全速力で部屋に駆け戻った。
急いで装備を整え、最短距離で気配の元へと向かう。
幻惑魔法を超えて侵入されたということは、それだけの強者でなければ有り得ない。
一瞬オーガに知らせるべきかとも思ったが、アイツにはここ以外に逃げる場所もないし、どこかへ隠れさせようにも気配を消せないので意味がない。
無駄に怯えさせるよりは、ギリギリまで放っておいてやる方が良いだろうと判断した。
侵入者の理由如何によっては、そのまま踵を返してもらうことも可能なはずだ。
現場に到着すれば、そこには一人の男が立っていた。
直接の知り合いではないが、そいつの名は間違えようもなかった。
「……盲目の双剣士サウロ・ディザールト」
半ば呆然と呟く。
ドラゴンすら単独で討伐してのけるという、生ける伝説。
人の限界を超える力を手にしながら、正しき心を失わぬ真の英雄。
「女か。こんなところで何をしている?」
生まれつき視力を持たぬという男は、しかし真っ直ぐと私を捉えて言った。
「っそれは、こちらのセリフだ。
貴方のような特級狩士が一体なぜこんなところに?」
こんな大層な人間が、精々中級魔物しか出現しないチンケな山になど足を踏み入れるわけがない。
何か、特別な理由でもない限りは……。
男から次に語られるであろう内容にある程度の予測はついていたが、それでも私は尋ねずにはいられなかった。
外れてくれ外れてくれと心の内で願いながら、言葉が返るのをジッと待つ。
「あぁ。オーガの目撃情報があったというのでな。
調査と、発見次第討伐するよう依頼を受けて来た」
……っやはりか。
あの臆病なオーガが私を助ける際に山賊を殺したとは考えにくい。
おそらくアイツらの中の誰かが、狩士協会に報告に行ったのだろう。
凶暴性が高いとされる上級以上の魔物の存在が確認された場合、その討伐は優先的に行わなければならないという規則があった。
この場合、上級以上の狩士は余程の事情が無い限り協会からの依頼を断ることが出来ない。
そして、たまたまこの付近にいたサウロにその優先依頼が飛んだのだ。
上級以上の狩士なんて滅多にいるものじゃあないから、別段おかしな話ではない。
「ここに来たのは幻惑魔法の存在を察知したためだ。
オーガが現れたというには、あまりにその痕跡が少なかったものでな。
怪しいと踏んだ」
「……残念だが、無駄足だ。
ここには朽ちた砦があるだけで、魔物一匹いやしなかったぞ」
頼むから帰ってくれと必死に願いながら吐いた言葉は、けれど無情に一蹴されてしまう。
「嘘だな。お前、何を隠している?」
「かっ、私は、隠してなどっ」
「盲の私を騙せると思うな。
人類に仇なす魔物は例外なく排除されねばならん。
邪魔立てするようなら容赦はせんぞ」
一瞬にして膨れ上がった殺気に、心が折れてしまいそうになる。
けして覆ることのない、絶望的な力量差。
「っく!」
だが、歯を喰いしばって剣を抜いた。
ここでこの男を通せば、オーガは間違いなく殺されてしまう。
「刃を向けるか、負けると分かっていて」
「……サウロ。
アンタの予想通り、ここにはオーガがいる」
「そうか」
「だが、アイツは何の罪も犯していない。
ただオーガという肉体を持って生まれてきた、優しくて、臆病で、無害な生き物だ。
人類に仇なす魔物などではない」
「そんな与太話が信じられると思うのか?」
「思わない。
だが、事実、私はアイツに助けられた。
命の恩は命で報いねばならん」
男の殺気は変わらず私を取り巻いていたが、これまでにない集中力が身の内から恐怖の感情を消してくれた。
まるで時が止まってでもいるかのような、不思議な静寂の中にいた。
目の前の男に意識の全てが集束していく。
「今どき殊勝な心がけだな。
その対象がオーガでなければ、の話だが」
「何とでも言え! アイツは私が守る!!」
駆ける。
殺せなくていい。致命傷でなくていい。
せめてオーガが逃げ出せる程度に、上級魔物と戦うのは厳しいと判断させる程度に、コイツを弱らせることが出来ればっ。
だが、現実は非情だった。
いつ抜かれたのかも分からないサウロの刃に、私の身は貫かれていた。
「……が……っ」
「悪くない攻撃だった」
内部からせりあがってきた血液が口から漏れる。
ビクリビクリと身体が痙攣を起こしていた。
視界が揺れる。
意識が朦朧として、思考が定まらない。
「今ならまだ、的確な治療を施せば死ぬことはないだろう。
先程の言葉、撤回するのなら助けてやらんでもないが?」
「っ………………断……わっ……!」
「そうか、残念だ」
血と共に答えを吐き出せば、男はゆっくりともう片方の刃を振り上げた。
あぁ、これじゃあ無駄死にだ。ちくしょう。
なぜ、私はこんなにも弱い。
なぜ、私は女なんかに生まれ……。
「グォアァアアァァァアアアッ!!!」
瞬間、どこからか轟音が鳴り響いて、私の身体がドサリと地に落ちた。
かすむ目を無理やりに動かせば、私の真上に一体のオーガが立っている。
見たこともない恐ろしい形相をしているが、間違いなくあのオーガだった。
……っバカな。
助けに来たのか。
猪の死体如きで気絶する軟弱なお前が、私を?
冗談だろう。
今だって、死にそうなくらい震えているじゃあないか。
無理なんかしなくていい。
これ以上、私ごときのために無理をする必要は無いんだ。
オーガ。
逃げろ。そう口に出そうとするが、もはや声は出なかった。
目の前の男が強者であることを見て取ったのか、オーガは握っていた拳を開いて、さっと私に覆いかぶさって来る。
揺らぐ視界が、さらに涙で滲んだ。
守るつもりなのだ。
その身を呈して。
そんな価値、私などにありはしないと言うのに。
「……オーガ?
いや、確かに体躯は……だが、これは……」
遠くから誰かの戸惑うような声が聞こえてくる。
あぁ、そうか。サウロか。
いよいよ意識が危なくなってきているらしい。
もう耳も……あまり……。
「……血の臭……無……本……話……な……助……」
あぁ……オーガ……すまない……私の……せい……で……お前……。
~~~~~~~~~~
ギィ、という扉を開ける小さな音で目を覚ました。
寝起きで一秒ほど呆けてしまったが、意識を失う直前の状況を思い出し慌てて身を起こす。
「オーガ!?」
「ゴヴェェエッ!?」
奇怪な悲鳴を追って視線を動かせば、その先でがっしりとした巨体と薄青色の肌を持つ上級魔物のオーガが尻もちをついていた。
傍らには一瞬前まで水が入っていたのであろう桶がカラカラと音を立てながら回転を続けている。
「オーガ! 無事だったのか!!」
駆け寄ろうとベッドから降りかけて、瞬間、身体中に強烈な痛みが走り呻きながら蹲ってしまう。
「……いっっ!」
「ウガ!?」
すると、驚きから一変、心配そうな表情をしたオーガが素早く傍まで移動してきた。
潤む黄色の目玉に、思わず苦笑いが零れる。
「バカ。なぜ、お前が泣きそうな顔をしているんだ。
大丈夫、ちょっと痛んだだけで……」
「無理はしない方が良い。
傷もまだ完全には塞がりきっていないのだからな」
「サ、サウロ・ディザールト!?」
出入り口に気だるげに寄りかかった盲目の双剣士は、スッと手を上げ、身構えようとした私を制した。
「落ち着け。私がお前達を害することはもうない」
「が…………えっ?」
「お前の主張した通り、このオーガが無害な生き物であることが分かったからな。
人の幼子でも、コイツよりは余程濃い血の臭いをさせているぞ」
「……は、はぁ」
チラと横に目を向けて見れば、いつの間にかオーガは私の傍を離れ、部屋の隅で小さくなってブルブル震えていた。
…………おい。
命を賭して私を庇ってくれた、あの時の勇敢さはどこへ行った。
その後、私から事と次第を聞き出したサウロは、たった一人で例の山賊たちを殲滅して帰って行った。
オーガのことは、その山賊たちの狂言であったということにしてくれるらしい。
また、顔見知りの特級狩士たちにも砦のオーガに手を出さないよう内密に伝えておいてくれるそうだ。
依頼を受けたのがこの男で、本当に幸運だったと思った。
あるいは清廉なオーガを気に入ったどこぞの神が、こっそり守護でも与えてくれていたのかもしれない。
それを確認する術は存在しないけれど、小動物と戯れるオーガを見ていたら、あながち間違ってもいないような気がした。
そして、私は……。
「ゲヴォエィッ!?」
「やぁ、オーガ。久しぶりだな。
私のこと、覚えているか?」
数年間、魔物狩りとして旅を続けた後、やがてどの男を見ても無意識にオーガと比べてしまっている自分がいることに気付いて、さんざ悩んだ挙句、砦に戻って来ていた。
完全に開き直って、いっそ押しかけ女房でもしてやろうと思ったのだ。
オーガの生涯に数度だけあるという発情期を見極めてこちらから襲ってやれば、いくらコイツでも逃げ出したりはしないだろう。
それまでは、せいぜいジックリねっとり歩み寄って、私という存在に慣れてもらうことにしよう。
笑みから邪念でも感じ取ったのか、微妙に後ずさり脅えた目を見せてくるオーガ。
そんな姿にどこか懐かしさを感じ、私は更に笑みを深めて、彼の恐怖心を煽ってしまうのだった。
おしまい。