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やはり里音はまだまだ子どもだ。彼にとっては貴砂など大人の女にすぎないのだろう。恋愛対象になりえないから、子どもが親に甘えるように無防備でいられる。ブレーキを必要とせずに積極的になれる。
里音に近づかれたことを思い出して、臭くなかっただろうかと不安を覚えた。もう何日も風呂に入っていないし髪も洗っていない。
記憶呑みは人の記憶を食べ、同時にご飯やパンも食べる。普通の人間に較べて新陳代謝がはるかに遅く、汗をあまりかかないために身体が汚れにくい。汗まみれになって汚れまくる普通の家出娘と違って楽な身体だが、それにかまけていると積もり積もった汚れを忘れがちだ。
貴砂はおもむろにシャツを脱ぎ、上半身をブラジャー一枚にして脱いだシャツを顔に押し当てる。神経を集中してにおいをかぐが、とりわけ異臭は感じない。「だいじょうぶか……?」と半信半疑のままシャツの背中側やわきの下の部分のにおいを確かめていると、
「お、お姉ちゃん……?」
出入り口に立つ里音の声で、貴砂は我に返った。二秒間ほど固まり、反射的にシャツを胸にあてがってカーテン代わりにする。
ほんのりと赤くなっている里音の手には、粒薬が入った瓶と水入りペットボトルが抱えられている。それを見て、消えた里音が薬を持って戻ってきたのだと貴砂はようやく理解した。ひたいを合わせたときはパニックにおちいっていたから、里音が言ったことがまともに頭に入らなかったのだ。
「……ははは。ちょっと暑くてさ」
頭をぽりぽりかきながら、とっさにそんな言い訳を口にする。そして可能な限りの早さでシャツを着直した。
見られてはならない醜態や下着姿を見られ、貴砂の顔は青ざめてゆく。里音は自分のことを変態だと思っているのだろうか。
いっそ里音の記憶を消せたら。里音の記憶を少し喰えばいいだけだが、それは貴砂の信条に反するのでできない。
貴砂はもろもろのよどんだ思いを胸の奥に押しこめ、どっかりとあぐらをかいた。盛大に鼻息を出し、落ち着きはらった様子をアピールする。ここは年上の貫禄で流してしまわねば。
「服を脱ぐほど熱いなんて、ひどい風邪だよ」
里音はさっそく薬の瓶を開け、粒薬と水の入ったボトルを貴砂に差し出した。
「ありがと。里音」
風邪気味だというのは嘘だったが、里音の心づくしの薬が貴砂には嬉しかった。遠慮無く錠剤を口に含み、水で流し込む。緊張と興奮でほてった身体には、冷たい水がちょうど良かった。
「何か欲しいものとか、して欲しいことが
あったら言ってね。僕、何でもするから」
そばに座ってにぱっと笑う里音に、貴砂は「……ん」とあいまいに返事をしながら目をそらす。あまりにけなげで、可愛すぎる。本当に熱が出そうだった。
里音をちらちらと見ながら、貴砂はあることに気づいた。里音を愛しく思うのは、彼が貴砂のそばを離れないからだ。学校の中でも、純血の記憶呑みの貴砂はいつも浮いていた。差別もいじめも受けなかったが、代わりにいつも普通人との間に壁があった。壊れやすい貴重品には触れてはならないとばかりに、みんなから距離を置かれていた。思い人とこれほど近く、親しくなるのは、初めてのことだった。
「お姉ちゃん、どうして記憶を食べるのが
好きじゃないの? 記憶、嫌いなの?」
「うん……」
不意に話題がそんな方向に転がり、貴砂はイエスとも無意味なあいづちともつかない声を返す。
子どもは無邪気ゆえに残酷だ。純粋な好奇心から、相手を傷つけかねないことを平気で聞く。貴砂が記憶を呑むのが好きでない理由は二つある。一つは生きるための取り引きで、ろくでもない記憶ばかりを食べなければならないから。しかし、そんな薄汚れた生活のことは里音には知られたくなかった。だから貴砂はもう一つの理由を話すことにする。
「記憶ってさ、その人の生きてきた
道筋だと思うんだ」
「……?」
「里音だって、生まれてから今までの記憶が
全部消し飛んだら不安だろ?
きっと性格も、好きな物も、がらっと変わる。
今までの自分じゃなくなっちゃう。
それって、今までの自分が死ぬことと変わらないよ。
過去を消したいから記憶を食べてもらいたい
人は大勢いるけど、あんまり良いことじゃないと
思うんだ。
忘れたい過去でもその人が歩いた道なんだから、
それを食べると……なんだか人を部分的に
殺してるみたいな気がして、嫌な気持ちになる」
「そっか……」
記憶呑みにしか分からない独特の感覚がどこまで伝わったのかは分からない。しかし、貴砂の憂鬱が里音に伝染し、どうも重苦しい空気になってしまった。
「僕、記憶呑みって好きだな。
僕たちには絶対できないことをやれるんだもん。
かっこいいよ」
「どうかな。科学の力で私たちの力が解明
されたら、人間にも同じようなことができる
ようになるかもね。
私たち記憶呑みは時代遅れに近いと思うよ。
一族の血縁と因習にこだわって、排他的で……
そのうち時代の波にさらわれて散り散りに……」
ぺらぺらとしゃべっているうちに、里音がさらにどんよりとした空気をまとっていることにふと気がついた。貴砂は思わず顔に手を当てて深いため息をつく。せっかく里音がフォローしてくれたのに、さらに空気を重くしてどうする。
里音と話していると、つい口が軽くなってしまう。赤の他人には絶対に話さない大切に育んできた持論を惜しげもなく披露してしまう。心の警戒が手薄になってしまうのだ。
「……里音、あなたここがなんで幽霊屋敷
なんて呼ばれているか、知らないでしょ?」
「古い家だし、幽霊が住んでるんじゃ……」
「ふふん。それが違うんだなー」
湿った空気を変えるには、何か面白いことが起こればいい。貴砂のショートカットが水の中にもぐった時のように、ふわふわと揺れる。
すると同時に、里音の横におぼろな人影が浮かび上がった。
里音はびくりと震え、「わあっ!?」と小さな悲鳴を上げて貴砂に飛びついた。
その意外な力強さに貴砂は一瞬息をつまらせたが、なにより驚いたのは自分のひかえめな胸に里音の頭が当たっていることだ。
貴砂の顔が一気に朱に染まる。心臓が危ういほどに高鳴る。集中がとぎれたせいで、具現化した記憶の像が霧散する。
「お姉ちゃん……今のは、幽霊?」
「ちがう。この家に染みついた記憶」
おびえた表情で顔を見上げてくる里音に、貴砂は内心で煩悶しながらどうにか答える。
こんなことになるとはまったくの想定外だった。貴砂の肌に触れる里音の腕から、体温が直接伝わる。かすかに里音の香りがする。高鳴る心音をさとられまいと、貴砂は身を少しだけ引いて里音の頭から胸を離した。
私は里音よりも年上だぞ。年が上の分、私の方が偉いんだ。どうしてこんな小さな子に心理的に後れを取らなければならないんだ。そんな意地のような理由で、貴砂はどうにか気持ちを鎮める。
「この家には、かつて住んでいた人の
記憶が強く残っているの。
だから、感受性が強い人には何かが
見えたり聞こえたりする。
それがこの幽霊屋敷の正体。真相」
「幽霊じゃないの? 呪われたりしない?」
不安げな顔の里音に見上げられて、貴砂の胸はきゅんと締め上げられる。抱きしめたい。守ってあげたい。そんな母性本能とでも呼ぶべき衝動を貴砂はどうにか胸の奥に押しこめる。
「私がここに居すわってるのは、
残った記憶を食べるためよ。
こういう場所は記憶呑みには
ごちそうの宝庫だからね」
定期的に記憶を食べなければ生きていけない記憶呑み。しかし、そのたびに人の記憶を喰うわけにもいかないので、伝統的に記憶のたまり場で食事をすることになっていた。人が保有している生の記憶に較べれば味や鮮度はずっと落ちるが、それでも腹は十分にふくれる。
「あっ……。ご、ごめんね、お姉ちゃん」
いまだに貴砂に抱きついていることにようやく思い至り、里音は照れ笑いを浮かべながら胸元を離れる。
ほんのりと顔を赤くして申し訳なさそうにじっと見つめる里音。ぐっと息を呑む貴砂。あまりにも可愛い。あまりに圧倒的すぎる。恋は盲目というが、理性や分別が加速度的に失われていくのを実感する。
あのままでは堕ちるところまで堕ちそうだったので、「もう遅いから帰りなっ」と強引に里音を帰した。貴砂は夕焼けで橙色に染まる廃屋の一室でセイと向き合っている。
「どう思う? 里音に彼女はいるのかな」
「情報が足りないので判断できません」
心ここにあらずといった風にため息をつく貴砂の前に、きちんと正座をしたセイがひかえている。やはりセイには表情がない。
「知りたいのなら聞けばいいのでは?」
「聞けないよっ!」
「どうしてですか?」
「どうしても!」
セイは困ったように首をかしげる。お手伝いとしては非常に優秀だが、人の感情の機微にはうとい。
「キサはリオンが好きなのですか?」
「…………そうかも。
私にも、よく分からない」
一回り以上も年上なのに、家も種族の地位も捨てて独りで生きてきたのに、どうして私はここまで心を乱される? 貴砂は悔しささえ覚える。
セイに助けられてきたとはいえ今まで自力で世間の荒野を生き抜いてきた。少しずつ積み上げてきた誇りが無意味に等しくなってしまうほど、今の貴砂の胸を占める気持ちは強く、あらがいがたい。
「……そうだ! 良い手がある!」
律儀に正座をしているセイを尻目に床の上に寝そべっていた貴砂は、ばっと起き上がりセイの顔を見つめた。




