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強烈な蒸留酒を一気飲みしたかのように、目が回る。たえまない吐き気で胸がむかつく。天地の区別が消えてしまったように奇妙な浮遊感を覚える。最悪の記憶を食べた時に決まって味わう食あたりだった。

記憶は人を殺せない。しかし、記憶を味わうことによって人間が死ぬことはある。高度に発達した社会では人間関係も複雑化し、人間が受けるストレスも増大する。自然、精神を病む人間も増える。そんな現状において、記憶呑みの記憶を喰う能力がほうぼうから求められていた。

過去の事実を変えることはできないが、じつは過去とはあいまいなものだ。日常の出来事のほとんどは書類やビデオといった記憶媒体に残されず、ただ人々の記憶としてのみ残る。

だから記憶を消すと、過去が消えるのとほぼ同じになる。それを可能にするのが記憶呑みの力だ。過去に苦しめられている人間の記憶を食べ、過去を無かったことにする。記憶呑みの力は一般的にそんな風にして使われている。

貴砂がやっている取り引きはいわば闇商売だ。通常、正式な資格をもつ記憶呑みに記憶を消してもらうには大金がかかる。しかし、モグリの貴砂は正規の値段よりもはるかに安く記憶を消すことで、どうにか取り引きが成立している。


「どうしたの、カノジョ。

ダイジョーブですか?」


不意の掛け声に貴砂が顔を上げると、いつのまにか四人の男に取り囲まれていた。染めた色の髪にたくさんのピアス、品性が劣る薄笑い。夜の街を遊び歩く不良達だ。人気の無いわき道に一人でへたりこんでいる貴砂を獲物に決めたらしい。


「あれ、こいつ記憶呑みじゃん?

ほら、この髪の色」


「マジ?」「ホントだ、スゲー」という頭の軽そうな感想とともに、野球帽からはみだした貴砂の前髪に好奇の視線が注がれる。記憶を食べた悪酔いのせいで世界がゆがんで見える。へらへらと笑う彼らが今の貴砂にはいっそう醜悪に映った。


「気分、マジで悪そう。オレら、良い場所

知ってんだ。ちょっと寄って休んでいこうよ」


「やめて、下さい。あっち……行って下さい」


吐き気をこらえながら一生懸命しぼり出したか細い声も、彼らにはまるで通じない。まともな倫理観など持ち合わせていないのだろう。非常に珍しい記憶呑みの少女をゲットしたとあって意気が上がっている。

貴砂は左腕をつかまれて無理矢理立たされる。記憶を食べた副作用で、一時的に全身が敏感になっている。そのせいで、不良につかまれた部分に無数の小さな蜘蛛(くも)がはっているかのようなおぞましい感触が走る。

女の家出が無謀(むぼう)に近いのは、今の貴砂のような目に遭う可能性が高いからだ。悪意をもった男に多人数で迫られればあらがう術(すべ)はない。もしも貴砂が普通の非力な少女なら、死にたくなるようなことをされるしかない。

しかし、貴砂はただの家出娘ではなかった。


「……セイ、助けて……」


主の命を受けて胸のペンダントに宿ったセイが即座に具現化。

貴砂の腕をつかんでいた一人を無言で見つめると、問答無用でみぞおちを殴り上げる。その威力は男の体が軽く宙に浮くほどだった。路面にうつぶせに倒れ、そのままあえなく気絶する。

どこからともなく突然現れ、仲間を一撃で沈めた無表情のメイドを、不良達はどう解釈したのか。彼らが動き出す前にセイがすたすたと歩き、一人の胸元を左手でつかんだ。そして左手一本で軽々と宙吊(ちゅうづ)りにする。

息をつまらせて足をばたつかせる仲間を助けようと、セイの背後から大柄な男が殴りかかる。大振りの右ストレートの狙いはセイの後頭部だったが、空振りに終わる。まるで煙か何かをないだかのように、拳が何の抵抗もなくセイの頭を素通りしてしまったからだ。

記憶の結晶体であるセイは密度の高い幽霊のようなものだ。体のどこを実体化させるのも自由自在。したがってセイに物理攻撃は通用しない。

セイは振り向きざまに、左手に吊した男を恐ろしい勢いで残りの二人に投げつける。三人はまとめて数メートル吹き飛び、からみ合って地に伏したまま一人も立ち上がる者はいない。

迅速で確実。無情で過剰。それが頼れるセイの仕事柄だった。


「大丈夫ですか。キサ」


セイに抱き起こされ、貴砂はふらふらと立ち上がる。正当防衛とはいえ、少々やりすぎた。早めにこの場を立ち去った方がいい。通報でもされてはやっかいなことになる。

セイに肩を抱かれ、引きずられるようにして暗がりの道を歩く。そのうちに、貴砂は不快な思いに表情をこわばらせる。


「どこかが痛むのですか? キサ」


「……ううん、平気」


表情を消したまま顔をのぞきこむセイに、貴砂は悲しい微笑を返す。食べた記憶の悪影響はようやく去りつつあった。が、今度は別の激情が貴砂の胸を灼(や)いている。

時々、どうしようもないやるせなさにおそわれる。何もかもが虚(むな)しくて、たまらなくなる。貴砂は今、そんな時だった。

記憶呑みで美しい顔をした貴砂が街のろくでなし共に目をつけられるのは珍しくない。そしてセイに叩きつぶされた男達は数知れない。生きていくための金を稼ぐために人々のおぞましい記憶を呑み続け、何度でも耐えがたい苦しみを味わい続ける。

荒廃(こうはい)した日々だった。それもこれも記憶呑みという種族の束縛が嫌だからだったというのに、結局貴砂は記憶呑みの能力に頼って生きていくしかない。

鏡を見るたびに、貴砂は濃い瑠璃色の髪がうらめしくなる。海よりも空よりも深い青色の髪は、貴砂が純血の記憶呑みであることの証だ。貴砂の記憶を呑む力は、種族の中でも最高位にある。記憶呑みとしての将来は約束されているようなものだが、それは他人に敷かれたレールの上をただ走るだけの人生だ。

家出を続けても、記憶呑みの自分を切り離すことはできない。記憶のゴミ捨て場としてしか生きられない自分が、貴砂には悲しい。

貴砂の目に涙がにじみ、それを服のそででぬぐう。今夜中にあと何人かと取り引きをしなければならない。現実と理想のギャップを思うたびに無力感で身体が重くなる。

セイに支えられた貴砂が涙をこぼすのも珍しいことではない。それを分かっているセイは前を見つめたまま何も言わないし、聞かない。

いったいこの荒れた家出生活の意味は何なのか。家から逃げ出しても記憶呑みの自分に縛られるのなら旅を続ける意味など――。

何百回目かの問いかけをしたときに貴砂の胸に浮かんだのは、なぜか里音の笑顔だった。里音と過ごした時間を思い出し、闇に染まっていた心に温かな光が差す。彼を想うと気持ちがなごむことに気づき、貴砂はハッとする。

思えば、苦しい放浪を続けて楽しかったことなど、里音と過ごしたことくらいだった。いつの間にか貴砂の中で里音の存在が大きく育っていたらしい。


「里音――」


「キサ?」


夜空の月を見上げてつぶやく貴砂に、肩を貸しているセイが不思議そうな顔をした。



友情と愛情の境界線はどこだろう? 正気と狂気の境目(さかいめ)は? モラルとインモラルの区別はどこでつける?

貴砂はいつの間にか、透明な境界線を踏み越えてしまっていたらしい。

目の前でにこにこしながら話す里音に、貴砂は胸の鼓動の高鳴りが聞こえていないかどうか不安になる。

たしかに里音は中性的で可愛らしい顔をしているが、ただそれだけのはずだ。一回り以上も年下の、それも小学生の男の子に恋心を抱くなど、普通ではない。どう考えてもマズい。過酷な放浪生活のせいで、とうとう頭がどうかしてしまったのか。自分の変心に、貴砂は本気で恐くなる。


「お姉ちゃん、どうしたの?」


「……っ!?」


里音の顔を見つめたままぼんやりしていた貴砂の手の甲に、里音の手がそっと添えられた。里音の話にろくにあいづちを打たない貴砂を心配したのだ。

成長著(いちじる)しい子どもの手は熱い。貴砂よりもやや高い体温と、女の子のようなか細い指……そしてなによりも至近距離から顔をのぞきこむ里音のつぶらな瞳に、貴砂はあわてて手を引っこめた。


「お姉ちゃん、なんだか顔が赤いよ。

だいじょうぶ?」


「えっ…………

……ちょ、ちょっと風邪気味でさっ」


今ごろになって、顔を火であぶられでもしているようにほおと耳が異様に熱くなっているのに気づく。ヤバいッ、バレるッ。そんなことを考え、あたふたしながら、貴砂はゴホンウホンと大げさにせきばらいをして見せる。


「大変! ちょっと見せて!」


貴砂が止めるひまもなく里音は顔を寄せ、自分のひたいと貴砂のひたいを重ね合わせる。そうやって貴砂の熱を測ろうというのだ。


「熱いよ。やっぱり熱があるみたい」


目を閉じて眉を寄せ「うーん」とうなる里音。貴砂は息を呑んだまま、里音から目をそらして硬直するしかなかった。

貴砂は「ありがと。もういいんだ」と小声でつぶやき、里音の細い肩を両手でつかんで引きはがす。あのままでは本当にオーバーヒートで卒倒(そっとう)しかねない。


「僕、家から風邪薬、取ってくるね!」


「動いちゃダメだよ!」と言い残し、里音は小走りで廃屋から出て行った。

貴砂は大きく息をつき、壁に背中を預ける。鼓動が速い。心臓が壊れてしまうのでは思うほどだった。胸が苦しいのに、この痛みがどこか甘く、心地良い。不思議な気持ちだった。

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