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里音という名の少年を横目でちらりと見ながら、貴砂は投げやりに応える。
「えへへっ、やったぁ」と無邪気に笑う里音。
家を出て放浪を続ける貴砂は自分の力しか信じていない。だから他人とのなれ合いを求めない。そんな貴砂が里音を拒絶しなかったのは、少年の笑みに温かで清潔な光をかいま見たからだ。その光は、泥と埃と冷たさにまみれた貴砂の日常からは失われて久しいものだったのだ。
幽霊屋敷と呼ばれる廃屋でひっそりと暮らす自分は、里音の目にどのように映っているのだろう。最近、貴砂はそんなことをよく考えるようになった。
貴砂は世にも稀少な記憶呑みの種族だ。一族の同盟からはぐれた貴砂が流れ着いたねぐらを知り、そこに出入りすることを許された里音は、珍しい生き物を周りにないしょで飼っているような気分なのだろうか。里音の少年の日の思い出に、貴砂はどんな形で刻まれるのだろうか。
小学校の帰り道、里音は毎日貴砂のもとへやってくる。里音はいつも一人で、学校の友達を連れて来るようなことはなかった。貴砂についての秘密は、里音の胸の中だけにとどめているのだ。
そんな里音の心づかいが貴砂には心地よかった。うち捨てられた家とはいえ勝手に住みつくのは地域問題だし、そもそも貴砂は見世物ではない。里音以外の人間に好奇の目を向けられるのはごめんだった。
そして、今日も里音が廃屋にやってくる。
古びた木の廊下がわずかにきしむ。その足音を聞くと、貴砂の胸は奇妙なざわめきを起こすようになっていた。
貴砂の居る和室の出入り口に、里音の笑顔がのぞく。それを見ると、灰色だった景色が鮮やかにいろどられる。止まり、よどんでいた貴砂の時間が動き出す。
里音は当たり前のように貴砂の前に座る。それでも、貴砂はうかつに笑顔を見せないように気をつけていた。いずれ別れるのだ。あまり心を残してはいけない。
「お父さんの仕事で、転校ばっかりなんだ。
もう、いやになっちゃうよ」
里音はいじけたような顔を浮かべながら、ボロボロの畳を人差し指でいじる。
「情けないこと言ってるなあ。
あなた、男の子でしょ?」
「だってさ……」
捨てられた子犬のような目をして見つめる里音に、貴砂はかすかな苦笑を返す。
ごく短いつきあいだが、里音が気弱でおとなしいことはすぐに分かった。まったく男らしくないのだ。細身の身体、耳までかかる長い髪と可愛く整った顔は女の子と見間違えるほどだが、里音の中身も女っぽい外見につられているのかもしれない。
きっともてるんだろうなと、里音を見ながら貴砂は何度も思った。男らしくなかろうと、腕力に乏しかろうと、小学生くらいの年ならまず見た目で男の善し悪しを見極める。
「お姉ちゃんはいいな。どこでも
好きなところへ行けるもんね」
「自由は自由で色々大変なのさ」
旅人で記憶呑みの貴砂に、里音はあこがれているようなふしがある。貴砂は煙草を吹かして見せつけたい気分になった。もっとも、煙草など吸ったこともないのだが。
自由は自由で色々大変。それは思いつきで言ってみたセリフではなく、家出を続ける貴砂が抱いた正直な感想だった。
自由とは、自らに由るという意味。ありとあらゆる選択を自分自身で決定しなければならない。家庭の束縛からも、学校の規則からも、友人関係からも解放された貴砂の前に用意されたのは、無限の選択肢だった。
その自由度の高さに胸をおどらせるのではなく、まず貴砂はとまどった。大人達の指示にただ従っていた頃の方が圧倒的に楽だった。選択肢の海の中でどうすれば正解にたどり着けるのかも分からずに、この放浪の目的もいまだに見つかっていない。
今日の給食がどうだったとか、担任の先生が面白いとか、里音が話すのはそんなとりとめもない話ばかり。それでも、里音がそばにいると貴砂はなごんだ。
こんな風に、誰かと意味のない会話をするのはいつ以来だろう。生きるための取り引きの時以外、他人とまともに会話をしたことなどなかった。取引相手とは常に必要最低限の言葉数で済ませてきた。
長い家出生活で冷たく乾いていた心がだんだん潤っていくのが自覚できた。それと同時に、自分がいかに普通の世界から遠ざかって生きてきたのかが実感できる。
里音は転校をくり返してきたという。好きな土地とも、友達とも別れなくてはならない転校は子どもには辛い。せっかく積み重ねてきたものがリセットされてしまう。
世間知らずのなよなよとした里音を貴砂が突き放さないのは、里音が同類だったからだ。次から次へと街をさすらい居場所が定まらない貴砂と、どこか境遇が似ている。里音の孤独が貴砂にはよく分かる。そして里音も貴砂のことを同じ種類の人間だとうすうす感じとっていた。
「ねえねえ、お姉ちゃん!」
「な、何よ?」
いつになく目を輝かせて、里音が身を乗り出した。顔と顔がぶつかりそうなほどに接近し、貴砂はぎょっとしてのけぞった。
「お姉ちゃん、記憶呑みでしょ?
記憶、消して見せてよ。見てみたいんだ」
不意の頼み事に貴砂の心臓はどきどきと高鳴る。顔から血の気が引き、軽い吐き気を覚えた。反射的に里音から目をそらし、返答につまる。
「……記憶を食べるの、あんま好きじゃないんだ。
今、そういう気分じゃない」
「あの、その……ご、ごめんなさい」
ただならぬ雰囲気の貴砂を心配し、里音はおろおろと視線を床に泳がせる。
貴砂は不意打ちを面食らっただけで深刻な痛手を受けたわけではない。軽い混乱状態からはすぐに抜けだし、貴砂を見つめたまましょんぼりしている里音を見て「悪いことをしたな」と思う。
少しはサービスしてやるかと思い、貴砂はせいいっぱいの笑顔を見せて放浪生活で体験した面白い出来事を語ってやった。
二人の間に流れていた重苦しい空気が少しずつ消えていく。里音は夢中で聞き入っていた。なにしろこれまで、貴砂が自分について語ることなどほとんど無かったのだ。
何も持たず、まともな仕事にも就けない若い家出娘が生きていくには基本的に二つの方法しかない。物を盗んで食べていくか、体を売って金を稼ぐか。記憶呑みの貴砂は、そのどちらの方法も選ばなかった。
里音に構っているせいで初めの予定よりもはるかに滞在期間が延びている。そのせいでついに生活費が底をついた。また稼ぎに行かなければならない。
貴砂は夜の街にくり出し、電信柱に背中を預けたまま道を行き交う人々に目をこらしていた。そうして30分ほどが経ち、ようやく手ごろな客を見つける。今夜の最初の取引相手は中年で背広姿の男だ。
男の後ろについて行き、人通りが少なくなった場所で声をかける。見知らぬ娘に突然声をかけられたとあって、男は驚いた顔をしていた。
「私、記憶呑みなんです。ほら」
貴砂は営業スマイルを浮かべながら、頭の野球帽を取って美しい瑠璃色の髪を見せる。
「消したい記憶、何でも食べてあげますよ。
格安のお値段で」
中年の男はすぐに乗ってきた。貴砂が提示した料金は、相場の十分の一程度。ポケットマネーで忌まわしい記憶を消せるとなれば逃す手はない。
なにより、この男が貴砂との交渉を断るはずがないのだ。記憶呑みは、その人間が抱える記憶の質を敏感にかぎ分けることができる。往来の中にまぎれていてもはっきりと分かるほどに、最低の記憶の臭いをぷんぷんさせていたのだから。
貴砂の場合、先払い制を鉄則にしていた。悪い記憶を食べると意識が混濁してしばらく行動不能になる。そのせいで過去に不覚にも金を払ってもらえずに逃げられたことがあったのだ。それ以来、食われ逃げを警戒して先払い制を徹底している。
貴砂は男からよれた一万円札を三枚受け取ると、さっそく目を閉じて男の額に左手を添える。すぐにどす黒い記憶が左手を通して貴砂の中に流れこんでくる。
こんな腐った記憶、いちいち噛みしめていられない。味わわずに一気に腹の中に流し込むに限る。それでも、鼻をつまんで嫌いなモノを食べても完全には味を消せないのと同じように記憶の断片が貴砂の脳裏をよぎる。
強い怒り。絶望。恥辱。後悔。敵意。害意。殺意。およそ考えうる限りの負の感情が、貴砂の体内をどろどろに染めていく。客の男が目も当てられない人生を歩んできたのがよく分かる。
時間にして数十秒。体感時間はその十数倍の生き地獄。消したいと依頼された最悪の記憶を食べ終わった貴砂は、吐き気をこらえながら手を離す。
これでも男の抱える悲惨な記憶の氷山の一角にすぎない。たった三万円では一つの記憶を消すことしかできない。もしもこの男の消したい記憶を全て食べるとしたら、食中毒を起こしてひっくり返るか、さもなくばショック死するかもしれない。
すっきりした顔の男はまだまだ記憶を消したいらしく、今は金の持ち合わせがないので後日また会いたいと貴砂の携帯電話の番号を聞こうとする。正規の料金よりもはるかに安く記憶を消せるのなら、貴砂とコネクションを持ちたいと思うのは当然だ。
しかし、家出娘で定住をしない貴砂は携帯電話など持っていない。貴砂は後味の気持ち悪さに脂汗をにじませながら、ひきつった笑みで断り、さっさとその場を後にする。金を持っていない人間は客ではないのだ。
貴砂はふらつく足で道路を歩き、細いわき道に入ると崩れ落ちるように座りこんだ。服屋の店の壁に背中を預け、荒れた呼吸を整える。悪いモノを食べたなら強制的に吐き出せばいいだけだが、記憶は吐き出せない。消化しなければ貴砂の中から無くならない。
記憶を食べた瞬間は、例えるなら全身の毛が逆立つほどの極寒の氷河に短時間放りこまれるようなもの。記憶を消化して分解する時は、言うなればどぎつい太陽光が降り注ぐ砂漠に長時間放置されるようなものだった。




