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第1話 今日限りで家を出ます

夫が愛人に金庫の鍵を渡した朝、私はようやく結婚生活の終わりを理解した。


 侯爵家の朝食室は、窓から春の光が入っているのに冷え切っていた。私の向かいに座るレナード・クラウゼンは三十四歳。整った顔で紅茶を飲みながら、まるで新しい給仕係でも紹介するような調子で言った。


「今日から屋敷の会計と台所の采配はセリーヌに任せる」


 レナードの隣で微笑んだのは、愛人のセリーヌ・ヴァレルだ。淡い桃色のドレス、朝から光る宝石、私が止めたはずの無駄遣いが全部そこに乗っている。


「まあ、助かりますわ。奥様は数字にお強いけれど、華やかさがお嫌いでしょう?」


 嫌いなのではない。必要のない支出を止めていただけだ。


「では私は何をすればいいのですか」


 私が訊くと、レナードは肩をすくめた。


「セリーヌを支えればいい。君はそういう細々した管理が得意だろう」


 細々した管理。侯爵家の赤字を三年かけて埋め、使用人の給金遅れをなくし、滞っていた領地税まで整理したのは誰だったか。


「先月の赤字は、彼女の夜会衣装と宝飾品が原因です」


「またそうやって責めるのか」


 レナードの声が低くなる。


「社交は侯爵家に必要だ。君はいつも屋敷を地味にしすぎる。だから空気が悪くなる」


「空気ではなく帳簿の話をしています」


「その冷たさだよ」


 その一言で、何かがすっと引いた。


 ああ、この人は最初から何も見ていなかったのだ。妻ではなく便利な会計係。愛人が散財すれば私に埋めさせ、足りなくなれば私のせいにする。金庫の鍵まで渡した今、役目は終わりだと向こうから教えてくれた。


 私はナプキンを畳み、静かに立ち上がった。


「分かりました。今日限りで家を出ます」


 セリーヌが目を瞬かせ、レナードがようやく顔を上げる。


「……は?」


「家計も台所も愛人様が握るのでしょう。でしたら私は不要です」


「感情的になるな、ミレイユ」


「ええ。感情的ではありません」


 驚くほど声は落ち着いていた。


「離縁の書面は、弁護士を通してください。もうあなたの妻として愛人を支えるつもりはありません」


 レナードは鼻で笑った。


「好きにしろ。どうせ君に行く先などない」


 その言葉に傷つくより先に、可笑しくなった。行き先がないように、ずっと囲っておいたのは誰なのか。


 自室へ戻り、私は旅行鞄に必要なものだけを詰めた。衣装箱や宝石箱には手をつけない。持っていくのは普段着と外套、帳簿用の手帳、計算盤、そして母から譲られた節約料理の覚え書きだけだ。


 廊下へ出ると、侍女のエマが駆け寄ってきた。


「奥様、本当に行ってしまわれるんですか」


「今日からは奥様じゃないわ」


「それでも、私は味方です」


 泣きそうな顔のエマが、小さな包みを差し出した。中には侯爵家の仕入れ控えが数枚入っている。


「先月から、北向けの穀物伝票だけ何枚か抜かれていたんです。気になって隠しておきました」


 北向け。ノルトヴァルト辺境へ送るはずの軍需食料だ。


 私はそれを鞄にしまい、エマの手を握った。


「ありがとう。あなたまで巻き込まれないように気をつけて」


 正門を出ると、胸の奥に張りついていた重石が少しだけ軽くなった。侯爵夫人という肩書きは置いていく。でも、私の頭と手まで置いていくつもりはない。


 知らない明日でも、この屋敷の昨日よりはましだ。


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