小浜に酒蔵、味噌蔵、醤油蔵を造る
天文十八年、春。
若狭平定軍は小浜の港から北の川沿いに遡上して行った先にある丸山までの川辺りに陣を張り、そのまま越冬した。
軍の兵の総数は増えているが、構成は現地若狭で徴兵された兵と佐渡の兵が増えて、朝倉家の兵は徐々に減っている。
朝倉延景も越前に戻り、朝倉軍の指揮は代わりにやって来た朝倉景鏡がとっている。
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昨年(天文十七年)、後瀬山城にて「若狭平定」の御内書により、今後の若狭の指針を先の若狭守護の武田信豊やその家臣らに告げた。
それに対する回答はなく、武田氏並びに家臣達は各々の居城で徴兵を開始した。
徴兵の時期が収穫の時期と重なってしまい、挙兵まで時間がかかった。
ようやく各家が兵を集め(各家50〜300人くらいだ)、後瀬山城より西の大飯郡の逸見氏や武藤氏らの軍と小浜近辺の軍が後瀬山城に入って挙兵した。
平定軍の陣より東や北の熊谷氏や松宮氏、畑田氏らは、平定軍のすぐ裏手の山を居城とする内藤氏に合流して、そこから後瀬山城の本隊の軍とで挟み撃ちにする作戦だった。
しかし、徴兵にもたついているうちに内藤氏は平定軍側についてしまう。
その平定軍の裏手の山(阿奈志山)で普請中だった内藤氏の居城(天ヶ城)は、急遽、佐渡のスコップ部隊により砦化されて、そのまま佐渡の部隊が守りを固めた。
さらに、平定軍の陣に参陣していた沼田氏の軍も沼田氏の居城の熊川城に戻し、こちらにも佐渡の兵を動員した。
この兵の配置により、東側と北側の諸将が身動きがとれなくなり、後瀬山城からも平定軍の陣に討ってでてくる軍もなく、開戦しないまま冬を迎えて、皆、兵を退いた。
(内藤氏の寝返りに腹を立て、怒りにまかせた熊谷氏の200人くらいの軍が内藤氏の阿奈志山砦(天ヶ城)に突っ込んで、佐渡の狙撃部隊に射たれて撤収したりしたが…)
また、平定軍の陣にやって来た小浜代官の山県秀政は、平定軍の指揮の元、小浜代官を務めることとなり、仮若狭守護の朝倉延景により、「小浜の町と港を自治都市とする」との「小浜自治都市令」が発布された。
(延景は、この発布の後、平定軍の指揮を景鏡と交代する)
本格的な冬を迎える前には、港から丸山までの川辺りの陣は平定軍が全員寝泊まりできるような要塞施設になり、内藤氏の阿奈志山砦(天ヶ城)と、沼田氏の熊川城と、この要塞施設で若狭平定軍は冬を越した。
小浜の港の迅雷丸が乗りつけた辺りは、いくつもの川が海に流れ出るところで、港湾施設の港側の拠点は天然の川を堀がわりにした水城のようにできた。
ここから川を整備して、川湊も各所につくり小浜の町を川舟で行き来させるようにする。
暖かくなってきたら、平定軍の主な仕事はそれになる。
さらに、組屋さんをはじめ、小浜の町衆からの要望で、酒蔵と味噌蔵と醤油蔵を造ることにした。
酒蔵、味噌蔵、醤油蔵は平定軍の陣の内側、丸山の麓辺りに造ることにする。
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そうこうしていると、後瀬山城から武田信豊の使者がきた。
「若狭平定軍の指針を受けて、家督を嫡男の武田義統に譲る」とのことだった。
「何をいまさら…」などとは言わず、「そうか、そうか」と円満に事を進めることにした。
越前に戻っていた朝倉延景を呼び戻し、武田信豊から義統への武田家家督相続に立ち会う。
後瀬山城で行われた、この家督継承の場に、逸見氏、熊谷氏、武藤氏の姿はなかった。
家督を継いだ武田義統は、朝倉延景と錦の御旗の旗手の上杉実虎とともに、自ら上洛して若狭平定の報告に行く。
小浜自治都市は、上洛の際の献金、献上品を惜しみなく準備して武田義統に持たせた。
武田義統は、朝廷から従五位下若狭守を、幕府からは若狭守護職をいただいた。
さらに足利義晴の娘(義藤の妹)を正室にすると言う話が出たり、第十三代足利義藤将軍から「義」の字をいただき、「義統」と名乗ることになったりした。
便宜上、武田義統の諱は「義統」呼びで統一しておりましたが、ここから「義統」です。(ぃゃ、わけわからんって ^^;)




