小浜の港に港湾要塞を作っちゃいます
迅雷丸の着岸から一日遅れて、朝倉軍が小浜に到着した。
行軍の途中にある熊川城には、将軍家とも縁のある沼田氏が居を構えている。
物見にきた沼田氏の斥候に、「間もなく京から若狭平定の御内書を持った官軍が来るので、共に参られよ」と伝えさせた。
物見からの報告を聞いた沼田光兼は、とりもなおさず家臣らに出陣の準備をさせた。
それからさらに二日後に、錦の御旗を掲げた若狭平定軍が、沼田氏の居城の熊川城を通過して小浜に入った。
平定軍は元々は800人がくらいだったが、小浜に着いた時には1000人を超えていた。
迅雷丸から上陸した兵が100弱、朝倉軍が700か800、沼田氏も急遽50人くらいで参陣してきた。
小浜の港から川沿いに東の方の山(丸山)に陣を張り、若狭守護の武田氏の居城、後瀬山城に使者を出す。
使者は俺(菱田省吾)と錦の御旗旗手の上杉実虎だ。
「室町幕府第十三代将軍足利義藤様からの御内書を携えて、朝倉越後守延景様がお越しです。城主は急ぎ若狭中の領主を召集し、会所を整え、丸山に設えた陣まで迎えを寄越すようにお願いします。領主が登城できない場合は、必ず然るべき名代を越させるようにしてください。本日より十日は猶予を与えます。丸山の陣で待ちますのでよろしくお願いいたします」
と、伝えた。
この時、後瀬山城には若狭守護の武田信豊と嫡男の義統が居た。
この親子は元の世界の史実では、これから家督を巡ってお家騒動を起こす。
それを未然に防ぐための、今回の御内書だ。
武田氏はこれまでも、京の戦に出張って行ったり、丹後に派兵したり、今の守護の信豊が家督を継ぐ時にも叔父だか何だかと争っている。
その度に小浜の町衆達は矢銭をむしられてきているのだ。
武田若狭守護親子が国人領主達に使いを出し、後瀬山城に会所を設けているうちに、陣の背後から、また今度は内藤氏が様子をうかがいに来た。
沼田氏と同じように、新公方様から「若狭平定」の御内書が発せられたことを伝え、内藤家当主には平定軍の陣に参陣するか、後瀬山城で準備中の会所に出席するかを要請した。
この時、若狭の内藤氏も代替わりの時期であり、丁度、先代の内藤元廉から嫡男の勝高に家督が引き継がれたところだった。
勝高はすぐさま兵糧と数名の家来と共に平定軍の陣に参じた。
その様子を見た沼田氏も、すぐに兵糧の差し入れの手配をした。
後瀬山城から迎えが来たのは四日後だった。
この間も迅雷丸が着岸した小浜の港は、着々と港湾施設(要塞)の建築が進み、酒田からは建築資材が、佐渡からはバリスタやカタパルトなどの設置型の武器が次々と運び込まれてきていた。
平定軍の兵は、待機中はみんな人足として作業をしており、人手が十分すぎて、工事の進捗が激速やだった。
後瀬山城評定の間
上座真ん中:朝倉延景
左並び筆頭:上杉実虎
右並び筆頭:武田信豊
左並び二番目:沼田光兼
左並び三番目:内藤勝高
左並び四番目:逸見昌経
左並び五番目:熊谷勝直
右並び二番目:畑田光清
右並び三番目:松宮清長
右並び四番目:白井光胤
右並び五番目:武藤光家
下座真ん中:菱田翔吾(俺)
下座右奥:武田義統
「粟屋氏からはどなたもお越しにならなかったと言うことじゃな」と朝倉延景。
「一族郎党逃げておって、今はどこにおるのか…」と武田信豊。
「では、ここに居るものを室町幕府十三代将軍足利義藤様の若狭の臣下と認め、「若狭平定」の御内書のもと、若狭の統治について申し渡す。以後は菱田殿、お願い致す」と朝倉延景。
「かしこまりました。
まずは京において、足利義藤様が後奈良今上様より室町幕府の第十三代将軍に任命されました。
そして、足利義藤新公方様から六角定頼様が執事に、細川氏綱様が管領職に、伊勢貞孝様が政所職に指名され、さらに三好長慶様を管領代として実質的な執政者とされました」と俺。
「なんと…」と、俺の背後の武田義統。
「管領様は… 細川晴元様はいかがなされた?」と武田信豊。
「細川晴元様は不慮の事故でお亡くなりになりました」と俺。
会場がざわついた。
上洛で結構な出費があったので、ご褒美がわりに小浜の港にちょっかいを出してみました(;´∀`)
武田義統の諱は信統→晴信→義統だったり、元栄→義元→義統だったり、諸説あるので、最初から義統で統一しておきます(おきますって…^^; あかんやろ…^^;)




