上杉・畠山・朝倉・六角連合上洛軍
次いで先行伝令部隊は、佐渡(本間家)が整備した敦賀から疋壇の通商路を進み、六角の領地に入り琵琶湖(淡海)の北岸の塩津から船で観音寺城に向かった。
将軍足利義藤の御内書に従い、越後上杉・能登畠山・越前朝倉が敦賀から京に向かっていることを、義藤の烏帽子親でもある六角定頼に伝えると、将軍義藤は現在、湖西の坂本に居ることがわかり、六角もすぐに軍を編成して坂本で合流することになった。
なお、先行伝令部隊には佐渡から本間佐渡守有泰、日本海御守衛総督本間貞兼、日本海探題本間高季と俺、菱田省吾がいる。
俺達、先行伝令部隊は観音寺城をたち、琵琶湖(淡海)を渡って坂本へ。
将軍足利義藤と先代将軍の義晴に上洛軍の報告をした。
義藤、義晴共におおいに喜んだが、どうにも近習どもの態度は気にくわなかった。
『こりゃぁ、九条の義父さんにも来てもらっておいて正解だったな…』
上洛を果たした後の舵とりで主導権を握るために、今回の上洛には九条稙通(義父さん)にも後方で同行してもらっている。
二条の義父さんは京にいるので、義藤を京に据えたら二条家、九条家、それに近衛家からも出席してもらって、京の復旧指針を示すだけは示そう。
どうせ、それでもゴタつくんだろうが、それ以上は知らん。
後は勝手にやってくれ(;´∀`)
そうして坂本で合流した越後庄内信濃北半国守護上杉・能登越中守護畠山・越前守護朝倉・近江守護六角の連合上洛軍は5000になり、錦の御旗を掲げる上杉実虎を先頭に京に向かった。
道中の陣触れで、
「本軍は征夷大将軍、源朝臣義藤が、京を乱す不義の輩を成敗せんがため、ここに御旗を掲げ、動かすものなり。この官軍の進行を妨げる者、敵対する者あらば、朝敵・幕敵として成敗いたす。合力せんとする者は馳せ参じて忠節を励むべし」
と繰り返し口上を唱えさせた。
上洛軍が比叡山を越えて京に入ると、その口上と錦の御旗に続いて二つ引両、竹に雀の上杉笹、三つ盛木瓜、隅立て四つ目結に丸に本と十六目結の旗印を掲げた騎馬隊が行軍して来るのに、京で争いを繰り広げていた細川晴元(三好)軍と細川氏綱・国慶(遊佐)軍は何も手出しすることができなかった。
上洛軍は建築中だった二条の足利邸(幕府執務室)に向い、義藤、義晴親子は無血で足利邸に入った。
上洛軍は二条の足利邸から御所のまわりに陣を敷き、佐渡の指示のもと炊き出しをはじめた。
佐渡式の粥と汁物の炊き出しは、それ以降、毎昼夜続けられ、軍の食事としてだけに限らず、京の町衆にも配られた。
ここのところ四国からの援軍を得て、三好長慶が優勢に畿内の争いを制し始めてきていたが、この機に遊佐長教は細川氏綱、国慶と共に行軍の口上への返しとばかりに、
「忠節に励むべく馳せ参じました」
と言って二条の足利邸に参内してきた。
遊佐長教は義藤の元服と将軍宣下にも立ち会っており、事と次第によっては義藤、義晴側に付こうと考えていた節がある。
将軍義藤に、
「よく来た。当面は末席について従え」
と言わせて受け入れるように示唆した。
そして三好長慶に対して、
「すぐさま二条の足利邸に参内して、室町幕府十三代征夷大将軍足利義藤に忠節を誓え」
と号令を発せるように示唆した。
三好長慶は、この時摂津の城を次々と落として取り返し、いよいよ京に乗り込もうとしていたが、同じ細川晴元方の三好政長と対立し、まだ摂津に留まっていた。
上洛軍の状況は逐一報告を受けていた長慶は、参内の命を受けて軍を率いて京に向かった。
そしてこの時、京の今出川御所に居た細川晴元は、この上洛軍を自分の指揮下に置いてやろうと、二条の足利邸に乗り込んできた。
五十騎ほどの騎馬隊を率いて、上洛軍の陣の中に「退けどけ〜」とばかりに踏み込んできた細川晴元を、佐渡のコンパウンドボウ狙撃部隊の一人が呆気なく射殺した。
まさか、射たれるなんてことは考えもしていなかった騎馬兵達は、すぐに晴元の遺体を馬に乗せて引き揚げて行った。
佐渡の狙撃部隊員は馬は狙わず、騎乗の将を射ちます。
(馬はできれば回収したいから)
一番偉そうな格好をしている者から狙うようにしています。




