公卿のお仕事と上杉実虎の初陣
七尾城下はいまや京より京だ。
下向してくる公卿衆や文化人達が、城下町を雅やかにしている。
畠山義総から家督を譲り受けた義続には、下向してくる公卿衆、文化人に仕事をさせるように言ってある。
「働かざる者食うべからず」である。
公卿らの一番の仕事は文化・教養の指導・鞭撻だ。
知者は持てる知識を語り、伝える。
画家には絵を描かせ、歌人には歌会を、茶人には茶会を開催させて町を賑わせるようにするのだ。
学校を作るのもいいだろう。
佐渡では特に能の保護・振興に力を入れているので、演者、楽士はもとより、能面づくりや装束の仕立ての指導などもしっかりと面倒をみてもらいたいところだ。
それと、収入面で特に力を入れるように言っておいたのは、京から持ち出せる書物をできるだけ持ち出し、それらを書写製本して複写本を作成することだ。
(できれば楷書で書写して欲しいところだが…^^;)
この時代の書物は貴重品だ。
複写本を弟子に与えて、手習いでドンドン複写させて北前船に積んでおけば、そこそこの値段で売れる。
さらに、百人一首を「読み札」「取り札」書いてもらい、まだポルトガルから伝来してないけど「かるた」も作り始めた。
ここまできたらついでだし(なんのついでだか(;´∀`)、トランプも花札も作ってもらおう。
これも文化・教養の指導・鞭撻だ。
うん、きっとそうだ。
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越中・越後は鵜坂川と信濃川には相変わらず手を焼いているが、他は着々と治水・用水工事、新田開発が進んでいる。
そして、早くから開拓事業に取り組んできていた揚北衆が、何やら戦がしたくてウズウズしてきていて、お隣の蘆名氏としきりに密通を繰り返しているようだと、諜報部門から報告が来ている。
今のところあれから、唐丹の方には葛西が攻めてくることはない。
わざわざ関わりに行かなくてもとは思うが、やはりこの時代、槍ばたらきでこそ名を成せる人材もいるので、活躍の場を奪ってばかりと言うわけにもいかない。
なので、特にとめることはしないでおいたら、ナント元服した上杉実虎(元の世界では謙信)が、初陣だと言って揚北衆と一緒に蘆名に加勢しに行った。
去年、唐丹ですったもんだして、稙宗派の葛西晴清を晴宗派の葛西晴胤がのみこんだことで、優勢だった稙宗派に少し陰りが見えはじめた。
そんな中、同じ稙宗派だった蘆名氏と田村氏が仲違いをはじめた。
乱が始まると蘆名氏と田村氏は、西と東から間の安積氏を攻めていた。
蘆名氏も田村氏も、どちらも稙宗派で協定を結んで安積郡の領地を切り取って行っていたが、いよいよ安積氏を追いやった時点で領地の分け方でもめ始めたのだ。
そこに晴宗派の葛西晴胤の勝利の報が入り、蘆名氏は稙宗派から晴宗派にくら替えを画策し始めたようだ。
蘆名氏は背後の憂いを取り除くべく、揚北衆と連携して田村氏が安積氏から切り取った領地に攻め入った。
それに便乗したのが上杉実虎(謙信)だ。
諜報部門の報告によると、実虎はよく言われるように、自ら先頭で騎馬隊を率いて敵陣に斬り込んでいくスタイルの戦い方を見せたようだ。
晴宗派にくら替えした蘆名氏は、揚北衆と実虎の加勢もあって、田村氏が支配していた安積郡の城を次々に陥落させていった。
そこで、上杉定実(守護様)から将軍(公方)に成り立ての足利義藤(義輝)に仲裁の御内書を出すように進言させた。
定実の進言を京(この時は近江にいたが…)の公方に伝えに行ったり、公方からの御内書を持ち帰ったりするのも公卿のお仕事のひとつだ。
今回の場合は定実の進言を伝える家臣団に七尾から冷泉家が同行し、まずは近衛家に行って取り次ぎ、近衛家の力も借りて公方からの御内書を持ち帰った。
(なお、この時公方義藤は管領の細川晴元と対立しており、父義晴と共に北白川の将軍山城で睨み合いをしていたので、実際のところそれどころではなかったのたが…;´∀`)
義藤公方からの御内書が届く頃には、稙宗派と晴宗派の優劣は完全に逆転しており、奥州伊達家天文の乱は稙宗が隠居して家督を晴宗に譲ると言うかたちで終結した。
九条様には、「この世界では起こるかどうかはわかりませんが…」と前置きして、大寧寺の変ってので公家が巻き添えで死んだことをこそっと教えている。
仲の良い公家には、大内氏のとこには下向しないでこっちに来いと言っておいて欲しい。




