第〇〇一六話 巨大な月・星のない夜空と蚊
「すっかり暗くなってしまいましたわ」
ミリンがそう言いながら、ラーゴを連れて出てきたところは、城の最上階からさらに上がった、城壁の上である。
寒い季節の太陽は早くも落ち、王城すべてが宵闇に包まれつつある時間。薄暗がりとはいえ、豊かな市民生活には灯りが行き届き、城の内も外も見渡せるこの場所からは、生き生きと活動する街が見て取れた。
「はい、冬の日は月から逃げるように、太陽が沈んで行きますので」
マーガレッタの言葉を聞いて、ここには夕月とか残月といった夜はないのだろうか、と不思議に思うラーゴ。すでに日が落ち、闇につつまれ雲一つない夜空に登りつつある天体。それは自分の記憶にあるより、やけに大きな満月ながらも、かなり鈍い光を放っていると感じられた。
「まもなく新年、とくに年明けはガニメデの泉の復活祭が行なわれますものね。こんな時間まで、どこもにぎやかですわ」
「やはりここは見晴らしがよいですね、殿下」
もはや、途中でリタイヤした口うるさいリムル女史は、合流する様子もない。ただ一人のみの付き添いとなってしまったマーガレッタが、そんな声を漏らす。
ラーゴは初めて上空から見渡す王城や、王都の街並みに目を奪われていたが、彼女の顔は残念そうに月の昇りつつある夜空を仰いだ。ミリンも、星影のほとんど見えない空を望んで言う。
「星が‥‥少ないのを憂うのですね、マーガレッタの知っている昔と比べて」
ぽつりと、ミリンが寂しそうにつぶやいた。たしかに、大きな月がやや暗く輝くだけであり、星の数は少ない。
(─ 街の灯りが明るくなったので、星が見えにくくなった、とかではないのかな?)
相変わらず、変な常識がうかぶラーゴだが、ミリンの言葉はどうもそんな話ではなさそうだ。
「はい、この数百年、めっきり星が見れなくなってしまいました。天空にちりばめられた星々は、その昔まるで川の流れのように見えたものですが」
「さぞや、美しい光景だったのでしょうね」
しんみりとした雰囲気に包まれるので、ここは自分の出番だとラーゴは『ごろにゃん』攻撃に入る。
「らご?」
「そうだわ。もしかするとラーゴにとっては、生まれて初めて見る夜空なのかも知れませんわね」 自分を撫でてくれるミリンの顔に、少し笑顔がもどる。「わたしの知っているのは、ほんの何年かだけなのですけどね‥‥。昔は本当に星もたくさんあったし、月もきれいに輝いたのだそうですよ。 ── いつごろのことなのでしたっけ、マーガレッタ」
「そうですね、川のように星が覗えたのは……六百年ほど前は間違いなく、夜空に見られたと思うのですが」
「そうだったのですね‥‥。わたしも見てみたかったですわ」
(─ 六百年、この三十路にも見えないマーガレッタ隊長が、六百歳を超している?)
生まれたばかりで、知った人間の数も少ないラーゴがマーガレッタ隊長を、三十歳までとみた根拠はきわめて薄弱である。だが一般常識で言えば、大きく間違えてないだろう。
「ラーゴ、マーガレッタ隊長は、こうみえて七百年くらい前から生きているのよ」
「ラーゴに七百年といっても、わからないでしょうね。本当はすごい、おばあさんなのですよ」
「それも、解らないですわね。ホホホ‥‥」
(─ 『ホホホ』、という笑い方も初めて聴いたが、すごいおばあさんどころじゃないでしょ、人間じゃない。化け物じゃないか? 『美人薄命』じゃなく『美人七百年』だったっけ?)
もしかすると、この王女様もとんでもない年齢だったりして。そんな年齢まで長生きするのだろうか、とラーゴは思った。いや、ミリンはなんといったか、『わたしの知っているのは、ほんの何年か』 ── ということなら、ミリンは見たままの少女なのだろう。だが、マーガレッタ隊長は違うらしい。
「ミリアンルーン殿下、この寒さの中、カマールが一匹いるようです。刺されないよう、お気をつけください」
マーガレッタ隊長の声で、ラーゴが振り向くと、一匹の蚊がラーゴのほうへ飛んできて ── 視界から消えた。すぐに耳元で突然、聞き慣れない声がする。
「ようやくオ目ニ、かかることガできました。わが新しキ主様」
(─ なんだ、こいつは。ただの蚊じゃない、しかも『主様?』、自分って蚊を従える種類の動物だったのか?)
カマールと言われたのは、どう見ても血を吸いそうな蚊であった。それがラーゴの耳穴に飛び込んできて、まさに蚊の鳴くほどの声で囁きはじめたのだ。
「今、人間の前デ、オ声を出されることハできないト思いますノデ、オ聞こえになッテおられるナラ、小さくうなずいテ下さいまセ」 ラーゴは言われた通り、巻き付いているミリンに気づかれないよう、自然な動きでちいさく頷く。「ありがとうございまシタ。このまま人間どもガ、聖泉ノ庭ニ戻って行きますト、吾ハ消滅してしまウかも知れませんノデ、手短ニお話しさせテいただきまショウ。申し遅れまシタ。創造主たる王によって世に生み出された、大智者ろのうえ大伯爵にお仕えする『ういぷりぃ』軍の、総大将でございまス」
いきなり、固有名詞の連続に面食らうラーゴ。だが要するに、蚊の世界でも、人間同様、王だの伯爵だのと、位や上下関係の存在することを理解した。
ここで『王が産み出した』とは、アリやハチのように女王一人が子孫を生む蚊の種類もあるのだろう、と納得する。ウイプリーというのは個人名ではなさそうだが、種族名なのか職位なのか、この状況下で聞き返すわけにも行かない。
それにしても聖域である聖泉の中庭に入ったら、消滅の恐れがあるようだ。聖域とは害虫も駆除する力を持つのだろうか。だとしたら、なんとも便利な泉の力である。
「では、体も冷えることですから、中に入りましょう。クリムさまが帰れないで、困っておられませんでしょうか」
「冬の夜は早いですから、……まだ、そんなに遅くはありませんわ」
ウイプリーと名乗ったカマールが危惧した通り、ミリンはマーガレッタに促され、飼育小屋に戻って行こうと足を向けた。
「オ話を急ぎまス。誕生間モない主様ニハ、状況がお分かりニあらズ、オヨソゴ不安であられるト、ろのうえ大伯爵ハたいへんご心配されてございまシタ。一刻モ早ク、この牢獄からお救い申し上げたいのですガ……」
ロノウエ大伯爵とやらは、ふらふらで自分を探しに王都へ踏み込み、現在行方不明。配下であるウイプリーおよそ六千体は、この寒空の中、絶滅回避が精いっぱいの状態らしい。とても聖域に捕らわれたラーゴを救い出す力もないという。
(─ 蚊の大群に、救われてもねえ。明日からの食いものにも、こと欠きそうだ)
「ろのうえ大伯爵ガ、オ倒れになられていた際、御身をオ助けせねバ、トうわごとニ繰り返されテいたのガおいたわしク……」
『蚊の鳴くような』とは言うものの、蚊が本当に泣く様子を、はじめて感じるラーゴである。もちろん、蚊から話を聞くのも初めてだが。
さらに一方的に続ける蚊の話は、こう結ぶ。創造主たる王が滅した今、主様 ── ラーゴをいただいて王国の再興に奮起し、再びの繁栄に全力を尽くすという、志を捧げると。
(─ なんてことを! ようやく食材から、王女のセレブペットとしての階段を一直線に登って行こうとしているのに。滅亡したという蚊の王国の大将として据え、自分のセレブな将来をぶっ潰すつもりか!)
蚊ごときに何もできないとは思うものの、こいつは魔族より、性質が悪いと感じ、怒ったラーゴはあわてて首をふる。
「あらぁ、ラーゴは帰りたくないようですわ」
ミリンは、なにか勘違いしているようだ。しかし、それどころではない。
「主様、申し訳ございませんガ、精いっぱいことを急ぎたいト思っております。ですかラ何卒ゴ容赦ヲ」
(─ バカ! だれが急げと言ってるんだ!)
こいつも大きな勘違い野郎だ、とラーゴは苦虫をかみつぶす。比喩ではなく、このウイプリーが口の中にいたら、憤りにまかせて咬み殺していたかも知れない。とりあえず、口には出せないラーゴは、どうせ蚊ごときの言うことだから、どうにもなるまいと、小さく数回うなずいておく。
「デハ主様、機が到来すれバ、必ずヤわれらガ魂に代えてモ、連絡ヲとりまス。また、いつでモ部下ヲ中庭上空デ待機させますノデ、オ使い下さイ」
そう言うとカマールは、マーガレッタに退治されないよう、全速力でどこかへ飛んで行くのだった。
「やっぱり帰りたくないって。 ── そうです、真王陛下が鳴き声を聞かれたいと仰せでしたわ。最後にお目通りさせに参りましょう」




