霧乃湯の女将
鳳凰館の妨害は、止まった。蘭子は、俺との、奇妙な「休戦協定」に、応じた。潰し合いをやめ、温泉街全体で、客を呼び込む。俺の提案した、その方針は、やがて、街全体を、潤していくことになる。
霧乃湯は、すっかり、繁盛旅館に、なった。色気目当ての男客だけでなく、家族連れ、女性客、常連。バランスの取れた、健全で、活気のある旅館。潰れかけていた面影は、もう、どこにもなかった。
ある夜。すべてが落ち着いた頃。俺は、女将に、呼ばれた。
「こまちさん。……いえ、あなたに、話が、あるの」
女将は、深々と、頭を下げた。
「ありがとう。あなたが来てくれなかったら、霧乃湯は、とっくに、潰れていた。……それで、ね。折り入って、お願いが、あるの」
女将は、意を決したように、言った。
「うちの、宗一郎の、嫁に……いえ、それは、無理強いはしないわ。でも、これからも、ずっと、霧乃湯に、いてくれないかしら。あなたを、いずれ、この旅館の、女将に」
俺は、面食らった。女将。この、俺が。
その時、廊下の陰で、宗一郎が、真っ赤な顔で、こちらを、窺っているのが、見えた。あいつは、相変わらず、俺に、惚れているらしい。俺は、内心で、苦笑した。悪いが、坊主。中身は、お前の親父より、年上かもしれん、おっさんだぞ。
俺は、少し、考えた。
実は、この頃、俺は、一つの、選択肢を、手にしていた。街の外れの、古い神社の宮司が、俺の身体の変化に、心当たりがある、と言ってきた。元の、おっさんの身体に、戻る方法が、あるかもしれない、と。
戻るか。それとも、このまま、女として、この旅館で、生きるか。
俺は、女将の、皺の刻まれた、必死な顔を見た。宗一郎の、純朴な顔を見た。増えた仲居たちの、賑やかな声を聞いた。繁盛する、旅館の、活気を感じた。
……悪くない、と思った。
トラック運転手だった頃の俺は、独りだった。家に帰っても、誰もいない。仕事して、飯食って、寝るだけ。誰にも必要とされず、誰の記憶にも残らない、そういう人生だった。
だが、今は。俺を、必要としてくれる人が、いる。恩を返せる、場所がある。守りたい、旅館がある。この身体になって、初めて、俺は「居場所」というものを、手に入れていた。
「……女将さん」俺は、言った。「女将にってのは、荷が重い。俺は、色気で客を呼ぶしか能のない、ガサツな仲居だ。……だが」
俺は、笑った。
「この旅館で、働かせてもらうよ。ずっと。恩は、まだ、返しきれてねえからな。……宗一郎の嫁ってのだけは、勘弁してくれ。あいつには、あいつに似合いの、可愛い嫁が、いるだろうさ」
女将は、目に、涙を浮かべて、頷いた。廊下の宗一郎が、がっくりと、肩を落とすのが見えたが、まあ、いつか、いい娘が、見つかるだろう。
*
元に戻る話は、断った。
俺は、この身体のまま、生きることにした。中身はおっさん、姿はムチムチの美人仲居。そのちぐはぐなまま。だが、それも、悪くない。むしろ――男だった頃より、今のほうが、ずっと、俺は、笑っている気がした。
翌朝も、俺は、露天風呂の掃除をしていた。たくし上げた浴衣で、ごしごしと、床を磨く。「清掃中」の札を、また見落とした男客が、うっかり入ってきて、四つん這いの俺と目が合って、鼻血を噴きそうな顔で、逃げていった。
「……なんだ、あいつ。今日も、風呂入らずに、逃げてったな。変な客だ」
俺は、相変わらず、何も、わかっていなかった。
だが、それでいい。俺は、俺のまま、この霧乃湯で、今日も、ガサツに、働く。
霧の晴れた朝の光が、山あいの、小さな繁盛旅館を、照らしていた。




