仲居になっちまった
目が覚めたら、俺は女になっていた。それも、とんでもない身体の、だ。
順を追って話す。俺、熊井剛蔵、四十八歳。職業、トラック運転手。独身。女っ気なんぞ、二十年前に忘れた。ガサツで、口が悪くて、飯は早食い、風呂はカラスの行水。そういう、どこにでもいる、むさ苦しいおっさんだった。
その日、俺は長距離の仕事で、山あいの峠道を走っていた。深い霧。カーブを曲がった瞬間、視界が真っ白になって――気づいたら、道端に、倒れていた。トラックはない。荷物もない。そして、俺の身体は、俺のものじゃなかった。
やけに視界が近いと思ったら、胸だった。俺の胸の上に、俺のものじゃない、二つの、重たげな膨らみが、載っていた。触ってみる。ありえない柔らかさが、手のひらを、押し返してくる。ぐにゃりと形を変えるそれに、俺は思わず「うおっ」と声を上げた。声すら、高くて、澄んでいて、俺のじゃなかった。
道端の水たまりに映った姿を見て、俺は絶句した。
若い。二十代半ば。むさ苦しいおっさんの俺が言うのもなんだが、絶世の、美人だった。切れ長の目、濡れた黒髪。そして――身体つきが、なんというか、規格外だった。細い腰。それに不釣り合いなほど豊かな胸。張りのある尻。濡れた服が肌に貼りついて、その凶悪な曲線を、一つ残らず、際立たせていた。
「……なんだ、こりゃ」
自分の身体を、上から下まで、眺める。まるで、グラビアだ。いや、グラビアより、質が悪い。これが、生身で、俺のものになっちまった。四十八年、こんな身体、拝んだこともないってのに、いきなり、中に入れられた。
なぜ、こうなったか。今も、わからん。考えてもわからんことは、考えない。それが、四十八年で身につけた、唯一の処世術だった。とりあえず、腹が減った。喉も渇いた。ずぶ濡れで、寒い。
ふらふらと山道を下ると、一軒の、古びた温泉旅館があった。看板は「霧乃湯」。だが、明らかに、傾いていた。壁は剥げ、暖簾は色褪せ、駐車場に車は一台もない。潰れかけ、という言葉が、これほど似合う建物も珍しかった。
背に腹は代えられん。俺は、その戸を叩いた。
「すいませーん。誰か、いねえのか」
女の声で、ガラの悪い呼びかけ。中身はおっさんだ。今さら、しおらしく喋れるか。
出てきたのは、疲れた顔の、初老の女将だった。俺を見て――正確には、俺の、濡れて肌に貼りついた服の、その下の身体を見て――目を、丸くして、固まった。
「あなた……その、なんて、身体……いえ、器量……」
「道で行き倒れてな。金も家もねえ。悪いが、一晩、軒先と、あと飯を、恵んでくれねえか」
女将は、しばらく俺を、まじまじと――特に、胸のあたりを――見ていた。そして、ぽん、と手を打った。目が、急に、商売人の光を帯びた。
「あなた、うちで、働かない?」
女将いわく、この旅館は仲居が次々辞めて、店じまい寸前。だが、俺みたいな「器量よし」が仲居をすれば、客が戻るかもしれない、と。住み込み、三食つき、給金あり。俺が今、一番欲しいものが、全部そこにあった。
「……わかった。やるよ、仲居とやらを」
仲居の仕事が女のものだろうが、知ったこっちゃない。この身体になった以上、どうせ女として生きるしかないんだ。贅沢は言ってられん。仲居名は、女将が勝手に「こまち」と付けた。俺のガラじゃねえが、どうでもいい。
*
問題は、その後だった。
女将に、仲居の浴衣を渡された。着替えろ、という。俺は更衣室で、その薄い布と格闘した。帯の結び方なんぞ知るか。適当に、ぎゅっと巻いて、終わりだ。
だが、この身体は、俺の想像を超えていた。
浴衣というのは、平らな身体を前提に作られているらしい。俺の――こまちの豊かな胸は、その前提を、完全に、破壊した。合わせがまるで閉じない。胸の谷間が、深く、覗く。雑に締めた帯は、豊かな胸に押し上げられて、すぐにずり上がり、裾がはだけて、太ももが際どいところまで、覗く。
「……着にくい服だな。まあ、動ければいいか」
俺は、鏡もろくに見ず、ガサツに、そう結論づけた。俺の意識では、これは「暑くて動きにくい、不便な作業着」だった。それ以上でも、以下でもない。
更衣室を出る。廊下にいた女将が、俺を見て、息を、呑んだ。
「……こまちさん。あなた……その格好で、お客様の前に……」
「あ? なんか、まずいか」
「い、いえ……むしろ……ええ、大丈夫。とても、大丈夫よ」
女将は、何かを確信したように、深く、頷いた。俺には、その意味が、わからなかった。
*
その日の夕方。潰れかけの旅館に、珍しく、二組の客が入った。出張帰りらしい、中年のサラリーマンたちだった。
俺は、女将に言われるまま、部屋に、茶を運んだ。
「失礼するぜ。茶を持ってきた」
男言葉のまま、ずかずかと部屋に入り、どかっと膝をついて、茶を出す。そのとき――前かがみになった拍子に、はだけた浴衣の胸元が、大きく、開いた。
サラリーマンたちの目が、一斉に、そこに、吸い寄せられた。会話が、止まった。空気が、変わった。一人が、湯呑みに伸ばしかけた手を、宙で止めて、固まっている。
俺は、その視線に、気づきもしなかった。
「なんだ、茶が熱いのか? ぬるいほうが良けりゃ、淹れ直すぞ」
俺は、彼らが茶に不満なのかと思い、ガサツにそう聞いた。男たちは、慌てて首を振った。
「い、いや! 茶は、その、最高です!」
「そうか。なら、飲め」
俺は、無造作に、立ち上がった。その拍子に、今度は帯がずり上がって、裾から、太ももが、際どく覗く。男たちが、息を、呑む音が聞こえた。
俺は、それを「暑いな」としか思わず、パタパタと、裾を扇いで、風を送った。よりによって、一番、見せてはいけない角度で。
男たちは、真っ赤になって、俯いた。一人は、鼻を、押さえていた。
「……なんだ、こいつら。のぼせたのか? 温泉、まだ入ってねえだろうが」
俺は、本気で、不思議だった。この、汗ばんだ、挙動不審の男たちが、なぜこうなっているのか。まるで、わからなかった。
部屋を出て、俺は、廊下で首をひねった。変な客だ。茶を出しただけで、あんなに動揺しやがって。……まあ、いい。世の中には、いろんな奴がいる。
俺は知らなかった。今、あの部屋で、二人の男が、「この旅館、また来よう」「あの仲居さん、やばい」と、興奮しながら囁き合っていることを。そして、その口コミが、潰れかけの霧乃湯を、とんでもない繁盛店に変えていく、最初の一歩だったことを。
俺は、ただの、ガサツなおっさんだ。中身は。色気を出す気なんて、これっぽっちもない。
なのに、この身体は、俺の意思とまったく無関係に、男という男を、片っ端から、悩殺していく。そして俺自身は、その効果を、一ミリも、自覚していない。
――これは、そういう、俺の受難と、旅館繁盛の、艶っぽくも間抜けな記録である。




