一話 石のまどろみ
雨が降ると、湖は目を覚ます。
霧がまだ水面に触れている時間、光はまだ輪郭を持たず、影だけがゆっくりと形を持ちはじめる。
そのほとりに、ひとつの石がある。
濡れるたびに色を変える、小さな硝子のような石。
誰も、それを持ち帰ろうとはしなかった。
森のものたちは知っている。
だから、触れない。
最初に訪れたのは、きのこたちだった。
柔らかな傘を揺らしながら、胞子を空気に溶かしていく。
苔はそれを、いつものように見ている。
何も言わず、水を相棒に、とりどりの緑を揺らめかせる。
角に花を咲かせた獣が現れる。
歩くたびに花びらが一枚ずつ落ち、湖面に触れると、かすかな光を放った。
その光は沈まず、石の周りに集まっていく。
霧がうすれるにつれて、精霊の輪郭が浮かんだ。
風とも影ともつかない輪郭で、湖の上をなぞるように滑る。
集まった光に導かれるように精霊が石へと気配を傾けると、表面に小さなひびのような模様が浮かび上がる。
内側から光が滲み出ようとしている印だ。
妖精たちは、その瞬間を待っていた。
羽は花びらの光と呼応する。
彼らは響き合う花びらだけを集め、ひびに一枚一枚そっと押し込む。
すると石は、ひとつ、呼吸をした。
湖がわずかに揺れる。
風はなかった。
けれど水面は震え、影がほどけ、光が差し込んだ。
石は、芽に形を変えた。
内側から細い芽が伸びる。
透明な茎の中を、光が流れる。
それは植物とも違い、動物とも違った。
獣はそのそばに立ち、また花びらを一枚落とした。
苔は少しだけ場所を譲り、きのこたちは傘を閉じた。
精霊は形を失い、妖精たちはどこかへ散った。
湖は静寂を纏う。
影は元の場所へ戻り、光は朝に成り代わっている。
あの場所には、小さな芽だけが残っている。
ルウという名の精霊が、湖底からそっと水面へ上がってくる。芽を眺める。
手を伸ばしかけて、やめた。
ルウの湖底資料室には、標本が溢れている。
雨が止んだ。
湖は、また眠りにつく。




