第10話 万屋は今日も営業中
爵位を返してもらえると言われた日に、私は断った。
王都の応接室。ルドルフ殿下が正面に座っている。審問会から三日後。私の名誉は回復され、追放令は取り消された。公爵令嬢フィーネ・ブラントは、法的には元の身分に戻ることができる。
「父が爵位を返上した以上、ブラント公爵家は当主不在だ。君が継げば」
「お断りいたします」
「それと……改めて、婚約を」
「殿下」
静かに首を振った。
「そのお気持ちはありがたく存じます。ですが、私の居場所は私が作った場所にございます」
ルドルフ殿下は黙っていた。長い沈黙。
「……そうか」
それだけ言って、小さく笑った。窓の外を見ている。
「お元気で、殿下」
「ああ。……君も」
扉を開けて、振り返らなかった。
廊下を歩きながら、殿下が最後に窓の外を見ていた理由を考えた。何を見ていたのだろう。考えるのをやめた。もう関係のないことだ。
帰路の馬車は、来た時よりずっと賑やかだった。
リーザが娘に「もうすぐおうちよ」と言い聞かせている。ハンスが保存食の干し肉を齧りながらラングナー男爵と税制の話をしている。クラーラは窓の外を見ながら黙っていた。何を考えているのか、聞かないことにした。
私はヴォルフの隣に座っていた。
会話はほとんどなかった。でも、ヴォルフが持ってきた茶を飲んだ。不味かった。薬草を煮出しただけの、苦い茶。でも温かかった。
「……これ、毎日飲んでるんですか」
「ああ」
「味覚を疑います」
「うるさい」
それだけの会話。馬車が揺れるたびに肩がぶつかった。二人とも避けなかった。
辺境の宿場町に着いたのは、王都を出て七日目の夕方だった。
馬車を降りた瞬間、土の匂いがした。石畳ではない、湿った土の匂い。
万屋が見えた。
看板がない。一瞬焦った。でも近づくと、ヴォルフが脚立に乗って看板を外しているところだった。
「大家さん、何を」
「板が割れかけていた。直す」
看板を裏返すと、新しい彫り文字が入っていた。「万屋」。前と同じ不器用な字。でも、前より少しだけ丁寧になっている。
「……また作ってくれたんですか」
「直しただけだ。角が欠けていたから磨き直した」
素っ気ない声。でも看板の角は、前と同じように丸い。
その日から、万屋の改装が始まった。リーザが棚を整理してくれた。ハンスが新しい椅子を運んできた。クラーラが窓に花を飾った。ラングナー男爵が法令集の最新版を寄贈してくれた。マルタが保存食を山ほど持ってきた。
「あんたがいない間、町が寂しかったんだよ」
ハンスがそう言って笑った。
改装が終わった日の夕暮れ。
ヴォルフが万屋の前に立っていた。新しい看板を掛け終えたところだった。
「フィーネ」
「はい」
「一つ報告がある。密偵を引退した。今後は辺境に残る。本当の大家として」
足が止まった。
「……それは、任務の命令ですか」
「違う。俺の意志だ。これからは嘘のない関係だ」
嘘のない関係。
看板を作ってくれたのは嘘ではなかった。スープを作ってくれたのも。薬を塗ってくれたのも。一晩中椅子で看病してくれたのも。
「嘘のない関係……いいですね」
ヴォルフが私のほうを向いた。夕日が横顔を照らしている。
「俺と一緒に暮らさないか」
心臓が跳ねた。
「大家と店子じゃなく」
「……大家さん」
「ヴォルフ、と呼んでくれ」
あの夜のことを思い出した。椅子で寝落ちしていたヴォルフ。右手が肘掛けから垂れ下がっていた。何かに伸ばしかけて、途中でやめたような格好。
今、その手が伸びてきた。
今度は、やめなかった。
大きな手が、私の手を包んだ。傷だらけの、温かい手。
「……ヴォルフさん」
名前を呼んだら、涙がこぼれた。
「はい」
ヴォルフさんが少しだけ笑った。この人が笑うのを見たのは、初めてだった。
キスは、夕日の味がした。
それから数日後。
万屋は通常営業に戻った。新しい依頼人が来る。土地の境界線で揉めている農家。相続の相談に来た商人の妻。迷子の犬を探してほしいという子ども。さすがにそれは万屋の管轄外だったが、一緒に探した。犬は酒場の裏にいた。
その日の午後、一通の手紙が届いた。
差出人の名前はない。封蝋の紋章も見たことがない。万屋宛て。
開封した。美しい筆跡。
「お手並み拝見いたしましたよ、万屋殿。辺境の小さな相談所がここまでの仕事をなさるとは、驚きました。つきましては、次はもう少し手強い謎をお届けいたします。楽しみにお待ちくださいませ」
署名はなかった。短く、こう記されていた。
「隣国宰相」
セレスティアが最後に叫んだ名前。横流しネットワークの、さらに上にいた人物。
「ヴォルフさん」
厨房から顔を出したヴォルフさんに、手紙を見せた。目が細くなった。
「……また厄介事か」
「厄介事が来るうちが華ですよ、ヴォルフさん」
手紙をしまって、立ち上がった。
「ご依頼の裏には必ず秘密がございます、と申し上げましたでしょう?」
ヴォルフさんがため息をついた。でも口元が緩んでいた。
「……勝手にしろ」
「はい。勝手にします。あなたと一緒に」
万屋の扉が叩かれた。新しい依頼人だ。
立ち上がって、扉を開ける。
窓の外で、あの看板が風に揺れていた。不器用な字で「万屋」と彫られた、手作りの看板。角が丸く磨かれた、あの人からの最初の贈り物。
万屋は今日も営業中。




