第9話 奏王天劇「境」
哀しげな弦の音に、奏王の神秘的な歌声が重なっていく。彼の背後には、墨色の着物を纏い、裏方に徹する楽器隊の姿があった。太鼓が地鳴りのように響き、続いて透き通った笛の音も流れ始めた。
奏王は琵琶を抱えたままターンを繰り返し、ユラユラと風見鶏のような舞を披露している。序曲が終わり、彼が観客へ向けて深く一礼すると、それを合図にステージは漆黒に包まれた。舞台の両脇に据えられた、かがり火が灯されていく。
再び照らし出された舞台の中央には、どこか間の抜けた面を被った奏王が佇んでいた。鋼を繋ぎ合わせたロボットのような顔立ちをしている。
彼の足元、舞台の中央には一本の長い紐が手前から奥へと横たわっていた。国境を表しているようだ。
右側には無邪気な子供たち、左側には殺気立った敵国の兵士……奏王はその真ん中で、冷然と立ちはだかっている。
彼の後ろに控える楽器隊から、朗々としたコーラスが聴こえてきた。
「これは、遠い国のお話……幾年も一人で、国境に立ち続けた、巨大なロボット兵の物語です」
奏王の、震えるような歌声が物語を繋いでいく。
「私の名前は【 境 】。
……国境を守ることが、ただ一つの使命」
始まったのは奏王扮する、「境」が人間離れした、からくり的な舞で敵兵を退ける場面だった。その役割は至って単純だ。紐で表現された境界線より左側の者を阻み、右側の命をただ守ること……鉄の身体を持つ彼に与えられた、血の通わない正義であった。
守り抜いた子供たちからの感謝に、境はぎこちなく頭を下げている。
平穏が戻ると彼は、この場所で一人、紐の上を行き来しながら踊り始めた。足元の花を踏まないようにステップを刻み、優しい歌を口ずさんでいる。観客はその儚くも美しい舞に圧倒されていた。
しかし、その陶酔は唐突に打ち切られた。
突如として楽器隊の音色が、耳障りなほど明るく単調なものに変貌したのだ。国民たちの歓喜を表す、コーラスが会場を支配していく。
「戦争が終わった……【境】は争いの象徴だ。平和の証として、あの鉄屑を壊そう。今の私達に、線引きなど必要ないのだから」
かつて彼に守られたはずの国民たちが、嬉々として境を壊し始める。争っていた者同士が、抱き合い、平和を謳歌しながら境を取り囲んでいた。
倒れゆく境の舞の中、その面の表情が、なぜか悲しみに満ちているように見えた。
国民役のうち一人が、自分の目から嬉し涙が零れ落ちる様子を舞で表現している。そして横たわる境の頬にその雫が落ち、涙のように伝っていく動作をして去っていった。
静まり返った国境。
何も知らない一人の子供が歩み寄り、境の残骸に花を供えている。
再び舞台が闇に沈み、奏王の歌声だけが響き渡る。それは「境」に宿った、絶望を表していた。
「私は何も知らなかった。人間が引く境界線というものが、こんなにも脆く、保証のないものだなんて……何も、知らなかった」
かがり火に微かに照らされた奏王が、ゆっくりと立ち上がり、最後の心情を歌い上げる。その手には、境界線の象徴として舞台に置かれていた、あの長い紐が握られていた。
「最初で最後の願いです……誰か私に、新しい名を付けてください。【境】という得体の知れない、軟な言葉ではなくて、もっと……もっと強い……」
供えられた一輪の花を、愛おしそうに見つめる仕草を見せた。からくり人形のような動きで、観客達を隅から隅まで見渡す。
「あなたが誰かを拒むために引いた、その境界線……どうか一度、立ち止まり、天から見下ろしてみてください……そこにいたはずの私の姿を、忘れないでいてください」
彼が、かがり火へと投げ入れた紐は、パチパチと音を立てて炎に呑まれていった。煙が天の方角へと吸い込まれていく。
観客たちは満天の星空には目もくれず、拍子抜けした面を被った奏王だけを見あげていた。
【 奏王天劇「境」 】は、そこで幕を閉じた。
会場が再び明るくなると、割れんばかりの拍手が巻き起こった。翠雨は呆気に取られたまま、魂を抜かれたように立ち尽くしている。
「境は最後……『花』っていう名前になりたいと思ったのかな」
彼は深く息を吐いた。
「正解は語られなかったから……それも、受け取り手次第ってことか」
独り言を言っていると、いつの間にか隣に立っていた天劇の関係者から声を掛けられた。
「いかがでしたか?」
翠雨は目を輝かせながら感想を伝える。
「こんな音楽、初めて聴きました。歌詞があるのに、作り手の心情が全く見えてこない。まるで天から物事を見下ろしているような……個人の感情じゃなくて、音楽そのものが、完全な一つの作品として、この世から切り離されているみたいです」
関係者は翠雨の深い洞察に驚いたように目を細め、深く頷いた。
「それが【 天芸能 】ですから。物事を自分という立場以外から、冷静に俯瞰できる者にしか作り上げられない世界なのです」




