第4話:物語が始まる前ですよ
十四キロの徒歩下校という苦行を終え、ようやく辿り着いた「聖域」。
そこで楓を待っていたのは、あまりにも早すぎる「事件」の幕開けでした。
高校生活において、俺が最も自分らしくいられる場所。それは教室でもなければ、ましてや「青い彗星」の助手席でもない。吹奏楽局の練習場所だ。
俺はこの不動高校で吹奏楽局に所属している。
楽器は中学の頃から続けているパーカッション、いわゆる打楽器全般を担当している。家にドラムセットがあったという、ただそれだけの理由で始めたものだが、気づけばリズムを刻むことが俺のアイデンティティの一部になっていた。
さて、吹奏楽という部活の最大の魅力は何だと思う?
音楽の深淵に触れること? 仲間とハーモニーを奏でること?
いや、もっと純粋で、かつ切実な理由がある。
それは――圧倒的に女の子が多いことだ!
二年生になった俺は、今まさに「黄金のポジション」にいる。
頼れる(そして可愛い)先輩、気心の知れた同級生、そしてこれから入ってくるであろう初々しい後輩。まさに、どこを向いてもヒロイン候補という名の花園が広がっているはずなのだ。
俺の周りにヒロインがいないわけじゃない。
とっても可愛い子や派手なの、清楚美人もいるよ。
ただ、その心の距離が、自宅までの十四キロ並みに遠いだけなのだ。
そんな俺にとって、一年生の頃から心の支えにしていた「聖域」とも呼べる存在がいるのだ。
それが、小野田先輩だ。
小野田先輩は、一言で言えば「陽だまり」のような人だった。
ほんわかとした優しい雰囲気で、いつもニコニコと後輩の俺たちを見守ってくれる。彼女が担当するテナーサックスの音色は、その性格を映し出したように柔らかく、包容力に満ちていた。
放課後、練習に疲れてスティックを置いた時、どこからか聞こえてくる先輩のテナーサックスの音色に、俺は何度癒やされてきたことか。
「今日はどこで吹いてるかな、小野田先輩……」
俺は自分のパート練習室に向かう前に、先輩がいつも個人練習に使っている音楽室を覗いてみることにした。
もし先輩がいたら、「新学期、始まりましたね」なんて、さりげない挨拶から会話を広げるシミュレーションは、昨日の「遭難」の最中に四時間半かけて完了している。
だが、音楽室の重い扉をそっと開けると、そこには静寂だけが溜まっていた。
夕方の光が差し込む誰もいない部屋で、俺は呆然と立ち尽くす。
あれれ?おっかしいぞぉー?
いつもなら、あの温かいリードの響きが聞こえてくるはずなのに。
廊下に出ると、近くで熱心にトランペットを磨いている人影があった。
それは、独特の「オネエ臭」を隠そうともしない、個性の塊のような男の先輩だった。
色々悩んだ結果、声をかけることにした。
「……あの、先輩。ちょっといいですか?」
俺が声をかけると、その先輩はくるりと振り返り、あからさまな上目遣いで俺を見つめてくる。
「どうしたの、りん? そんなに神妙な顔しちゃって」
語尾にハートマークが見えるような甘い声。
……いや、お前とのイベントは一ミリもいらんから! という言葉を喉元で飲み込み、俺は本題を切り出した。
「小野田先輩、今日は休みですか? さっきから探してるんですけど」
俺の問いに、オネエ先輩は磨いていたトランペットを一度置き、少しだけ真面目な顔(といっても色っぽさは残ったままだが)をして言った。
「ああ、小野田ちゃんなら……部活やめたわよ。進学のために勉強に集中したいんですってさ」
――がーん。
その瞬間、俺の脳内で悲しげなBGMと共に、一冊のライトノベルの紹介文が勝手に再生された。
『僕が唯一の目標を失うのは、大好きなサックス奏者の先輩が引退してしまう日。それまでに、僕はこの恋(と僕の音)を届かせたい――。』
第一章、完。
……って、これ、あとがきに「次回作にご期待ください」って書かれるパターンの打ち切りじゃねーか!
展開が早すぎませんか。早すぎて俺振り落とされてません?
俺は昨日、泥道を歩きながら、先輩のソロ演奏をバックに「実は一年の時から憧れてました」って告白するシーンまで妄想してたんだぞ。その物語、始まる前にメインヒロインが退場しちゃったよ。
呆然自失のまま、俺はパート練習の部屋へと向かった。
いや、待てよ。まだ希望を捨てるのは早い。
憧れの先輩がいなくなったのなら、次は同級生はどうだ?
俺は練習室に集まっている同学年の女子たちの顔を一人ずつ見つめた。
……。
…………。
無理だ。仲はいい、最高にいい。
だが、ほとんどが中学時代からの付き合いだ。今さらこいつらと恋愛なんて、実の姉とラブコメを演じるような気恥ずかしさがある。「家族感」が強すぎて、ときめきの欠片も入り込む余地がない。
「やっぱり、新入生だな」
俺は拳を握りしめた。
そうだ、高校二年生の春の醍醐味は、新入生勧誘にこそある。
真っ白なキャンバスのような一年生。吹奏楽に夢を抱いてやってくる、純粋な後輩たち。
彼女たちを迎え入れる側として、俺は最高にクールな先輩(あるいは、ちょっと面白いパーカッション担当)を演じなければならない。
「早く誰か見学に来ないかな。トランペットとか、花形パートに可愛い子がさ!」
俺は自分に言い聞かせるように、スティックで練習台を力強く叩いた。
けれど、その音の裏側で、やっぱり心は泣いていた。
小野田先輩ー!
俺のラブコメのプロローグ、書き終わる前に強制終了させないでくださいよー!!
俺の二年生、始まった瞬間に暗雲が立ち込めている。
だが、この逆境こそが物語の醍醐味なのだと信じたい。信じるしかない。
扉の向こうから、新入生の足音が聞こえてくることを祈りながら、俺は今日も一人、リズムを刻み続けるのであった。
最後までお読みいただきありがとうございます。
始まる前に終わる恋。
あまりに非情なプロローグの強制終了に、楓の心はボロボロです。
しかし、一つの扉が閉まれば、また別の(もっと厄介そうな)扉が開くのが物語の常。
次こそは、彼に「春」が訪れるのでしょうか。
評価や感想をいただけると、楓の折れた心が少しだけ繋がるかもしれません。




