第36話:井上さつきは知っている(後編)
新体制を決める吹奏楽局の会議。
本来なら「副局長は一人」という決まりがある中で、新局長となった楓が下した意外な決断とは。
さっちゃんの驚きと、その後に訪れるレクリエーションでの至福の時間。
長年呼び慣れた「りん」という名に別れを告げ、彼女がついに踏み出した一歩を描きます。
三年生の先輩たちが引退して、次の組織を決める日がやってきた。
あの日、枕に向かって名前を呼ぶ練習をしてから、もう数日。
……なのに。
ウチは、未だに「楓」と呼べずにいた。
いざ目の前にすると、どうしても「りん」っていう呼び慣れた言葉が先に喉まで出ちゃうんだもん。
心の中では何度も呼んでいるのに、声にしようとするとブレーキがかかる。そんなもどかしい日々を過ごしていた。
会議は進んで、りんが局長になることが決まった。
次は、副局長だ。
うちの吹奏楽局では、副局長のポストは本来一人だけ。
(……よし。ここでウチが立候補して、絶対に隣で支えてやるんだから!)
そう決意して手を挙げようとした瞬間。
一年のミツルくんが、勢いよく手を挙げやがった。
――山本テメー!! 空気読め!!
あーあ、決まっちゃったよ。
誰かが立候補して、反対がなければそれで決まり。
ミツルくんが決まった今、副局長という唯一の椅子は埋まってしまった。
もう、ウチの入る余地なんて一ミリもないじゃん。
やる気でない。帰りたい。もう泣きたい。
絶望のどん底にいたウチの耳に、聞き慣れたあの声が届いた。
「――ってことで、もう一人はサックスの井上さつき。さっちゃんにお願いしてもいい?」
えっ?
……ウチ!?
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
だって、副局長は一人のはず。なのに、りんは当たり前みたいに「もう一人」と言ったんだ。
思考停止。嬉しいとかより先に、あまりの不意打ちに心臓がバックバク鳴ってる。
あいつ、ウチを隣に置くために、勝手に役職を増やしやがった。
「仕方がないなー、形だけならいいよ……。ゴニョ(楓が言うなら、ね)」
最後の方は、恥ずかしすぎて自分でも何言ってるかわかんなかった。
結局、あんなに練習したのに「楓」って呼べなかったじゃん!
全部、先に手を挙げた山本くんのせいだ。絶対。
……まあいい。次の機会だ。
そしてやってきた、ご褒美のレクレーション。
ジンギスカンの会場で、りんは当然みたいにウチの隣に座ってくれた。
眩しそうに目を細める、あいつの横顔。
真っ黒な髪が初夏の日差しに透けて、青い空に写真みたいに綺麗に映ってる。
よし、今日こそ。
ウチはグーにした手で、りんの肩をぐりぐりと小突いた。
「定演の時、最後ホール前で挨拶してたんでしょ? お母さんから聞いたよ。中学の時からそうだったよね。ウチのことも、誘えよー」
りんは恥ずかしそうにポリポリと頬をかいた。
かと思ったら、急に立ち上がってどこかへ行っちゃった。
(……え、嫌だった? 馴れ馴れしすぎた?)
不安で死にそうになってたら、あいつ、自分の上着を持って戻ってきて。
それをウチの膝にバサッとかけたんだ。
「汚しても大丈夫だから。足、隠しておきな」
……えっ。
「あ、ありがとう……」
少しでも気を引きたくて、今日はわざわざ慣れないスカートを履いてきたんだ。
でも、それ以上に、あいつの不器用な優しさが。
汚れるのを心配して、自分の服を貸してくれるその気持ちが、嬉しくて。
あーもう。
気持ちが、溢れちゃうよ。
「ミツル! 残念そうな顔するな!」
「違いますよ! さつき先輩の足見てたんじゃないですからー!」
あいつ、わざと大きな声でミツルくんを叱ってる。
自分の照れを誤魔化してるんだ。……そういうとこ、本当にバレバレなんだから。
今、この瞬間しかない。
ウチは、熱くなった顔を隠さず、真っ直ぐにあいつを見た。
「……楓はさ?」
言えた。
ウチ、やっと言えた!!
不意を突かれたみたいに目を見開く楓を見て、ウチは胸の奥が震えるのを感じてた。
これでもう、ただの吹奏楽局の仲間じゃない。
ルールを曲げてまでウチを指名してくれたあんたの隣で、あんたの名前を呼んで、支えていくんだからね。
最後までお読みいただきありがとうございます!
本来一人であるはずの副局長に、さっちゃんを指名した楓くん。
口数は少なくても、彼なりに「さっちゃんが隣にいてくれないと困る」というメッセージだったのかもしれません。そんな彼の不器用なアプローチに、さっちゃんがついに応えた瞬間でした。
さて、さっちゃん視点の物語はここで一区切りとなります。
中学時代からの絆、積み重ねた時間。彼女の想いの深さを知った後で、物語の視点はもう一人のヒロインへと移ります。
定期演奏会のあの日、楓と涙を共有した彼女。
その真っ直ぐな瞳は、楓の「何」を捉えていたのか。
次回、第37話:春日葵は気付いてしまう(前編)
ハルちゃん目線の物語が始まります。
どうぞお楽しみに!
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