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第2話:「年季が違うのだよ」

バスとの死闘に敗北した楓が、実家で直面する第二の試練。

都会の通学風景とは一線を画す、我が家の「最終兵器」が登場します。

田舎の農家ならではの朝の空気感を楽しんでいただければ幸いです。


 バスの運転手から受けた、あの屈辱の敗北から数分。

 俺は実家の台所に立ち尽くしていた。


 勝負に敗れ、戦地から這う這うの体で逃げ帰った敗残兵のような面持ちの俺に、母さんは容赦のない冷たい一言を放ってくれる。


「アンタ、母さん畑に行ってるのわかってるでしょ? 自分で早起きしてちゃんと行きなさい!」


 農家の朝は早い。畑の神様よりも、昇る太陽よりも早く起きて土にまみれる。それが農家の妻という生き物だ。


 台所にいるから、朝ごはんを食べたら仕事に行くと思うだろ?

 違うんだ。もうすでに一仕事終えてから朝ごはんを作ってるんだぜ。


 さらにこれから一日の本番、過酷な「戦場」へと出向こうとしている母さんにとって、バスを逃した間抜けな息子(俺)の送迎などは、二度手間以外の何物でもない。貴重な朝の一時間を奪う、立派な重罪なのだ。


「母さん、ごめん。でも、あれはわざとじゃないんだ。置いてかれたんだよ、本当に……」


 俺は必死に言い訳を重ねるが、もちろん母に聞く耳などない。

 朝の家事をこなしながら、長靴を履く準備を整える母の背中は、言葉よりも重く俺のことを叱ってくれている。


「わかったわかった、言い訳はいいから早く乗りな! 遅刻するよ!」


 観念した俺は、リュックを掴んで玄関を飛び出した。

 表に停まっていたのは、一般的な家庭が送迎に使うような乗用車でもなければ、農家の代名詞である軽トラでもなかった。


 それは、昭和五十年代製の二トンディーゼル車だった。


 かつては鮮やかだったであろう青い塗装は、長年の潮風と土埃に晒されて渋いマットな質感へと変わり、ドアの横には白い筆字で「自家用」と力強く書かれている。

 そのフォントには、高度経済成長期を支えたトラック野郎たちの魂が宿っているかのようだ。


 俺はこの相棒を、密かに「青い彗星」と呼んでいる。


 こいつは、そこらの軟弱な新車とはわけが違う。まず、運転席に乗り込むと真っ先に目に飛び込んでくるのが、ステアリングコラムから生えたシフトノブだ。

 今の車のようなフロアシフトではない。ワイパーのレバーかと思うような位置から、ニョキリとギアが生えている「コラムシフト」なのだ。


 ギアを変えるたびに「ガコンッ」と手応えのある振動が伝わってくる。このメカニックな不器用さと、時代に取り残されたレア感。古いのが逆にカッコいい、と俺は本気で思っている。


 母が鍵を回すと、「キュルル……ドガガガッ!」と地面を揺らすような爆音と共にエンジンが目を覚ました。凄まじい振動が冷えた座席を通じて尻から脳天まで痺れさせてくれる。


 この「青い彗星」には、隠れたチャームポイントがある。長年の酷使によって生じたサビにより、助手席の足元の床板に小さな穴が開いているのだ。


 ふと視線を落とし、その穴を覗き込む。そこには、激走する左前輪のゴムの質感と、猛スピードで後ろへ流れていく砂利の地面が丸見えだった。


「母さん、穴がある。地面が見えるよ」

「あら、そっちもかい? お父さんに溶接してもらわないとねぇ」


 母はさも当然のように返した。「そっちも」ということは、運転席側にもあるのだろうか。

 案外、この業界では普通のことなのかもしれない。

 俺は「ここにだけは足を乗せてはいけない」と自分に言い聞かせ、爪先を少し浮かせるようにして踏ん張った。


 世の中の進歩は目覚ましい。

 街に出れば、静かに滑るように走るハイブリッド車や、排気ガスを一切出さない電気自動車、最新鋭の水素エンジン車が闊歩している。


 だが、うちはディーゼルだ。

 黒煙を吐き、轟音を撒き散らし、床に穴を空けながら走るこの「青い彗星」は、そこらの車とは背負っている年季が違うのだ。


 バスの運転手は、去り際に俺へ「出直して来い」と言った(ような気がする)。

 だが、母とこのトラックの圧倒的な存在感は、俺の受けたちっぽけな敗北感など、その煤けた排気音で跡形もなくかき消してくれた。


 窓の外には、四月の北海道らしい景色が広がっている。

 遠くに見える山々は、まだ重たげな雪化粧を解いていない。それどころか、日当たりの悪い畑の隅には、冬の名残のような雪の塊がしぶとく残っている。


 このあたりも、少し前までは一面の水田が広がっていた。

 けれど、減反政策や後継者不足による離農が進み、今では共同経営のビート(砂糖の原料)やデントコーン(家畜の飼料)の栽培が主流になりつつある。

 かつての泥臭い活気、田植えの時期の賑やかさを知っている身としては、効率化されていく広大な風景が、少しだけ寂しく、よそよそしく感じてしまう。


 畑の真ん中にぽつんと佇む、俺の母校である小学校。

 かつては子供たちの歓声が響いていたであろう校庭も、今では地域の過疎化によって静まり返っている。

 廃校の話もちらほらと聞こえてくる。時代の流れと言ってしまえばそれまでだが、自分のルーツが消えていくような感覚は、やはり胸にチクリと刺さるものがあるよね。


 ……なんて、そんな感傷的な話を隣に座る母さんと……できるわけがなかった。


 凄まじい振動とエンジンの爆音。車内は会話どころではない。

 口を開けば自分の舌を噛んでしまいそうだ。おまけに、足元の穴からは春の冷たい風が容赦なく吹き込んでくる。


 俺は農道特有のガタガタと上下に揺れるリズムに身を任せることにした。

 轟音の中に、不思議な安心感があった。

 母親が必死に家族を養うために、泥にまみれて走らせてきた、生活の音。

 その心地よいノイズの中で、俺はそっと目を閉じた。

 もちろん、寝るためだ。


 どれくらいの時間が経っただろうか。

 耳元で、凄まじいエンジン音さえも突き破る鋭い声が響いた。


「着いたよ! 起きなさい! ほんとアンタは、お兄ちゃんとおんなじなんだから!!」


 慌てて目を開けると、フロントガラスの向こうには見慣れた高校の校門がそびえ立っていた。


「母さん、ありがとー!」


 感謝の言葉を投げかけるが、母に余韻を楽しむ暇などない。

 荷台に何も積まれていない――四月という、本格的な農繁期の一歩手前の時期を象徴するような、虚しくも広大なスペースを持つ「青い彗星」。


 母はその巨体を揺らし、「バル、バル、バルルルルー!」とけたたましい音を立てながら、華麗なハンドルさばきでUターンを決めた。


 黒い排気ガスの煙を残して走り去る後ろ姿を見送りながら、俺はふと思った。

 俺には五つ上の兄がいる。今は地元の郵便局員として真面目に働いている兄貴だ。


 母さんの今の言葉から察するに、あのスマートな兄貴も、かつては俺と同じようにバスに乗り遅れ、この「青い彗星」に揺られて登校していたのだろうか。

 床の穴から見える地面に怯え、コラムシフトのギアチェンジの振動を感じながら。


 俺は心の中で、母に深く頭を下げた。

 母さん。五つも離れた兄弟揃って、同じような間抜けな理由で手間をかけさせて、本当にすまん。


 ふと顔を上げると、周囲は登校時間真っ只中の生徒たちで溢れている。

 制服姿の連中が、校門前を爆走して去っていった謎の青い大型トラックと、そこから降りてきた俺を、まるで珍獣でも見るような目で見つめている。

 女子グループの何人かが、笑いをこらえて肩を震わせているのがわかった。


「……何見てんだコラ」


 俺は小さく毒づき、これ以上ないほどに胸を張った。

 笑わば笑え。お前らの親が乗るピカピカのミニバンにはない歴史と愛が、あのボロいトラックには詰まっているんだ。


「愛だよ。母親の愛だよ」


 鼻を突く、ディーゼル車特有の黒い排気ガスの匂い。

 それは俺にとって、どんな高級な香水よりも頼もしく、温かい「実家の匂い」だった。


 その匂いを深く吸い込み、気合を入れていくぞ。

 さあ、今日も俺の、そして「青い彗星」に見守られた波乱万丈な高校生活が始まる。


最後までお読みいただきありがとうございます。


最新鋭のハイブリッド車にはない、昭和のディーゼル車特有の力強さと温かさ。

それは楓にとって、少し恥ずかしくも誇らしい「実家の匂い」でもありました。


黒煙と共に幕を開けた彼の高校生活、この先一体どうなることやら……。

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