“日常生活に支障をきたすレベル“という基準。私の書いた小説たちは本当に愛おしい(自己防衛的思考
鬱診断だとか、ADHD診断だとか、ネットでできる診断は大まかな質問と大まかな結果が記される。
まあまあ当てはまる、まあまあ当てはまらないといった選択肢があればまだ自分の中で考える余地があるのだが、イエスノー選択は自分の症状を極端にするためその人の本質が大きく出てしまう。
例えば不安障害診断で、「あなたは物事に対して慎重ですか?」という問いが仮にあった場合、不安障害であり尚且つ自己理解がしっかりできていれば迷いなくイエスと答えるだろう。
けれど、自分の考え自体に自信を持てていない場合、(果たして自分はイエスと答えられるほど慎重に動いているだろうか)という疑問を抱いてしまう。
自分の考えにイエスかノーをはっきり付けることに不安を覚えてしまうのだ。
そういった場合、その質問に対して一般的な答えを出してしまう。
(あの人に比べれば慎重ではないと思う。何に対してかで変わるし答えはノーだな)
これは0か100かの考え方も関わっており、100%そうであると断言できないものに対しては一般的な思考を持っていると認識してしまうのだ。
結果、不安障害ではないという結果が出る。
自分は違うのか良かった、という安堵感が生まれるかもしれない。
あるいは、それならばこのどうしようもない焦燥感は何なんだろう。どうして自分はこんなに出来ないのか。と自分を責めてしまうかもしれない。
また逆に、不安障害だと思っていなかったけれど、不安障害であるという結果が出た場合、その結果を見せびらかす人がいる。
自分にはこういう症状があると前もって周囲に打ち明けるのは勇気のいることであるし、自分を守るために必要なことだとも思う。
けれど、あたかもそれが特別な者の証のように見せびらかすのは少し違うような気がする。
「実はサイコパスなんだぁ」とニマニマ顔で言われても説得力がないし、脳の萎縮のせいで自分で統制とれないとかいうけどその自覚はちゃんとあるのかな、不安とかないのかなと此方の方が(そんな声を大にして言っていいの?)と不安になってしまう。
正しい知識もないままに診断を鵜呑みにしてしまうのは怖い。
かといってネット上の診断で個人を想定して質問を作ることは難しい。
人によって感じ方や捉え方、症状は全く違うのだから。
ただでさえ精神的なものは医者でさえ診断を下すのが難しいとされている。
「断言はできないけれど鬱の症状っぽいから、合いそうな薬飲んでみる?」と言われることがあるくらいだ。
そこで私が最近意識しているのは、自分の症状が“日常生活に支障をきたすレベルであるか“ということ。
私が特に困っているのは、不安すぎて物事に取り組めないこと。
けれど、人は誰しもが不安であるし新しいことに取り組む際は特に足が竦んでしまうだろう。
それが日常生活に支障をきたすレベルかどうかで考えてみる。
私は挨拶をするのが怖い。
相手に声が届かなかった場合、私の挨拶が空回りするのが怖い。
相手がもし私に嫌悪感や不信感を抱いている場合、返してくれなかったらどうしようか。
どの距離でどれくらいの声量で、どの挨拶をするのが適しているのか。
そんなことを考えてしまい、結果小さな小さな声ですれ違い様に挨拶をするようになった。
果たして日常生活に支障は出た。
「あの子って挨拶しないよね」と周囲の人が私に不信感を抱いていた。
「皆に挨拶をするようにね」と注意された。
私は夜、不安で眠れないことがある。
明日叱られたらどうしよう、明日寝坊したらどうしよう、あの人に嫌われてたらどうしよう、今日ちゃんと仕事終わってから帰ってきたっけ?
そんなことを考えるから夢の中で怒られた。
けれど、眠りが浅すぎてその怒られた出来事が現実のものか夢のものかわからなくなった。
現実で怒られたことなんてないのに、何故か怒られた気になっている。
判断が出来なくなっている。
余計に不安になって眠れなくなった。
いや、眠っていたのかもしれないけれどその記憶はない。
果たして日常生活に支障は出た。
日中仕事に取り組むだけの集中力がなくなり、何をどこまでしたか記憶することが難しくなった。
また、非常に涙脆くなり突然泣き出すことが増えた。
質問に対しては少しでも当てはまるならそのように答えた方がいい。
まずは自覚をするということが大切である。
けれど、診断結果を見てはたして日常に支障をきたすレベルかどうかと考えることは必要だろう。
ましてや他人に話す際や、他人の話に共感したのなら余計に深く考えた方がいい。
自分が思う最上位の症状が、他人にとって案外軽いものかもしれない。
自分の中で「気持ちが沈んで死にたいと思えば鬱である」という考え方を持っていても、ふと横を見れば「仕事に行こうと思った瞬間吐いて動けなくなった。飲まず食わずで3日過ごした」この症状をもってしてやっと鬱だと言う人がいる。
視野を広く持ち、自分のこの症状が他人の基準ではどうなるのかを考えるのも良いと思う。
その結果を思い込むことで本当にその症状になってしまうこともあるし、その結果を無闇矢鱈に言うことで他人に不快感を与えてしまうことがあるのだから。
まあ、死にたいという考えを抱いている時点で健常ではないのだが。
最後に、サイコパスやソシオパスといった反社会的人格症状について。
それらの特徴の中に「嘘を吐くのに抵抗がない」「他人との繋がりに執着しない」といったものがある。
嘘を吐くのに抵抗がない、日常的に嘘を吐くのは、自分の嘘で相手を操れるか確かめるためという理由があるらしい。
また、ソシオパスは恥や罪悪感も感じない為余計に抵抗がなくなってしまうのだろう。
これは日常生活に支障をきたすレベルかという基準では測りづらい。
けれど、相手を説き伏せるために嘘を吐く癖がついていると自覚があるのなら直した方がいいと私は思う。
狼少年はその身を最悪の形で滅ぼしてしまうことを私は良く知っている。
他人との繋がりに執着しない、というのも上記の基準では測りづらい。
一人でいることを好む人は少なくないのだから。
ただ、現在いる友人をその場のメリットデメリットで測って手を切ろうとしているのなら将来を見据えて考えを改めた方がいいと思う。
今その手を切ろうとしている思考はいっときの安堵を求めているのかもしれない。
これは私事になるが、不安障害のある人はナルシストになりやすいのだと思う。
またソシオパスと紙一重でもあると思う。
自分がどうしようもないダメ人間で不安で仕方なくて他人から認めてもらえることなんてきっとなくて、けれどそんな絶望をずっと抱えていれば人間の本能が許さない。
人は考える生き物であるけれど、生物として生きる本能はしっかり働いている。
痛ければ脳内麻薬が出て気持ちよくなるように、何かが体を守ろうとする。
誰からも認めてもらえない自分を誰が支えてくれるか。
それは自分だ。
その自覚がなくても、自然と自分を守ろうとする。
私はダメでダメでどうしようもないけれど、唯一出来ることがある。
そう、私が書く小説は誰も真似をすることができない特別な言葉を持っている。
そんな風に錯覚させてくれる。
はたから見れば見苦しい慰めでしかないけれど、自分を守るための最後の手段なのだ。
自分が不安障害であることを認めても、自分には強い部分もある錯覚することで踏みとどまることができる。
それが激化した結果、自分を守るために嘘を吐くこともあるし、今の自分を攻撃するような友人と手を切ろうとすることがある。
自分が今している行動は、何が原因しているのか。
どういった可能性があるのか。
そこを明確にしない限り、自分が何者であるか断言しない方がいいだろう。
人は永遠に情緒不安定なものだと思うが、20代前半まではそれが特に大きいらしい。
いつかこの不安も治るものだと思えば、多少は視野が広くなるのではないだろうか。
「私は」で始まる文が多いと自分語り乙って感じだし気持ち悪いし読む気失せるけど、気分が落ち込んで視野が狭くなると一人称が多くなるらしい。
他の人の事例出しても微妙だしそもそも自己満のエッセイで「私は」以外の文頭難しい。




