side:アドリエンヌのターン(思い出は美しくて)
七歳の時に、当時ジェラルディエール公爵家の当主であったお爺様に連れられて、初めて訪れた王宮は私にとって退屈な場所だった。
珍獣を値踏みするような目でもって、次々に挨拶にくる大人たち。
お爺様や付いてきた従者の手前、恥をかかせないように懸命に繰り返すカーテシーと社交辞令。
退屈を紛らわすものもなく、暇つぶしに窓から見える庭のポプラの木をぼーっと眺めて、
(あの木の枝ぶりいいわね。よじ登るのにちょうど良さそう)
と、終盤からほとんど上の空で思っていた。
(あー、面倒臭い……。暇なのであの木に登らせてってお願い……できるわけないわよねぇ)
にこにこと愛想笑いが過ぎて、笑顔が固まった表情のまま密かに内心でため息をつく。
自宅の屋敷や別荘にある木なら、両親やお爺様に頼めば、割とほいほい許可してくれるのだけれど、さすがに王宮の庭で、それも女児が木登りしたいなどと言えるわけがない。その程度の分別はついていた。
余談になるけれど、いまでこそ公爵家の令嬢然とした余裕を示している私だけれど、実のところ子供の頃は結構活発……というか、じゃじゃ馬、いえ、もっと明確に野生の猿みたいだったと思う。
スカートよりも男の子のように半ズボンを履いて、ちょっとした森ほどもある屋敷の裏山を走り回ったり、木にロープを垂らしてピョンピョン飛び移ったりと平気でしていた。泳ぎだって達者である。
もっとも、そのたびに同い年の侍女のソフィアをヤキモキさせ、場合によっては卒倒させたりもした(具体的に目の前で木から落ちた時や、泉で溺れかけた時)のも、いまではいい思い出である(ソフィアはまた別の見解があるかも知れないけれど)。
勿論、こういう公の場では猫を被る程度の分別はあったけれど、基本野生児の自分にとって、こうして壁に遮られた場所で、延々と何時間も人いきれと香水と煙草が混じった臭いをかがされるのは、正直拷問でしかなかった。
せめて、他に興味をひくものがあれば別だったのだけれど、期待していた『王宮』もお伽噺に出てくるキラキラ光る硝子の宮殿ではなく、案外こじんまりとした普通の建物だったし(後で聞いたところ、ここは王族がプライベートに使う離宮のひとつで、代々の宮殿は維持費の問題で特別な行事がなければ普段は使わないとのことだった)、謁見の間に現れた国王様も、トランプの王様みたいに白髭が生えてなければ、赤いガウンも王冠もかぶっておらず、仕立ての良いスーツ姿のまだ青年と言ってもよい貴公子で、
「やあ、よく来たね。初めましてアドリエンヌ。私は君の又従兄妹に当たるんだよ」
と、フランクに話しかけてくる……という塩梅で、随分と内心でずいぶんとガッカリした覚えがある。
まあ、いまどき「朕は偉大なるオルヴィエール統一王国の王であるぞ、頭が高い!」なーんていう時代錯誤な暗君でなかったのは幸いだけれど。
その代りというか対面した私と同い年だという第一王子は、悪い意味で『王子様』そのものだった。
「ふん。お前が俺の婚約者か!? 雛にも稀な美しさというから期待したのに、ただ髪の色が派手なだけのブスじゃないか! だいたい赤毛の女ってのは気が強そうで好みじゃないな。おい、お前。父上の手前、とりあえず婚約の話は受けるけど、せめて俺を立てる奥床しさを持てるよう、今後精進しろよ」
見るからに甘やかされたヤンチャ盛りの子供の暴言に、一瞬にしてその場が凍り付いた。
唖然とする私――『婚約者』という寝耳に水の単語に度胆を抜かされていたせいだけれど――の顔を小馬鹿にしたように睨め付けながら、第一王子は続ける。
「なんだその間抜け面は? 俺の言っていることがわからないのか? 馬鹿なのか? 返事くらいしろよ、馬鹿女」
「…………」
いまなら最初の暴言の半分もいかないところ切れていたけれど、当時の私は箱入り娘だった。
そもそもジェラルディエール公爵家は王家と深い繋がりがあり、こちらから王妃を輩出したり、逆に王家から姫君が降嫁されるなどということが二、三代ごとにある関係で、第二の王家とも呼ばれるような絶大な権威権勢を誇っている。
当然、貴族、商人、政治家、他国の王族に至るまで、私に対しては優しく紳士的に……文字通りお姫様扱いしてくれるのが当たり前。
と、そう思っていたところへの罵詈雑言に、当時の私はただただ目を見張って絶句するしか反応できなかった。
或いは気の弱い令嬢であったらこの場で卒倒していたかも知れない。
「え、なにこの子、頭おかしいの???」
と、疑問符を大量に頭の上に浮かべているくらいで済んだ自分は、実のところとことん生まれつき神経がず太いのではないかと、いまならそう客観視できるけれど――とにかく、それぐらいの衝撃だった。
「――ちえっ、碌に口も利けないのか?! はあ……父上っ、俺はこのようなレベルの低い女と婚約したくはありません。どうしてもというのなら、適当に弟のジェレミーにでもあてがったらどうですか?」
その不用意な発言と不遜な態度が周囲にどのような影響を及ぼすのか。
七歳児であった私でも、刻一刻と爆発する寸前のように張り詰める空気を肌で感じていたというのに、なおも得々と我が物顔で喋る第一王子。
幼児というのは愛らしい容姿をしているものだし、この王子はかなり端正な顔立ちをしているのは確かだけれど、そんな造作よりも内面の性格の悪さが滲み出てきて、直視するのも憚れる醜さだと思えた。
思わず生理的な嫌悪感から顔を背けたその刹那――。
「こ、この」「馬鹿者がーーーっ!!!!」
我に返った国王が息子を窘めようとした――それよりも一歩早く、我慢の限界に達したお爺様の割れんばかりの怒号が謁見室をこだました。
「ようも儂の可愛い孫娘を思う存分辱めてくれたのォ! 貴様のような思慮分別の足りぬ腐った性根の孺子に、儂の孫は勿体なさ過ぎるわ! 国王陛下と先の王妃である太后様の面目を立てて、今回の顔合わせを行ったが――おおさっ! こっちから婚約などお断りじゃわい!!」
憤怒の表情も凄まじく第一王子に向って捲し立て、当の第一王子はと言えば、耳元で大砲がなったかのようなお爺様の怒りを前に、「ひいぃ!」と顔面蒼白でその場にへたり込んで、さらには絨毯の上に放尿しています。
なんというか……つまんない男ね。
「お、お待ちください。ジェラルディエール公。お怒りはご尤もでございます。これもひとえに私どもの不徳のいたすところでございますが、まずはお怒りをお静めください」
慌てて割って入るこの国で一番偉いはずの国王陛下。
「ち、父上! こ、この者は俺に――第一王子である俺を脅しつけたのですよ! たかだか公爵ごときが! こいつを処刑してください!」
「あん?」
「――ひっ!」
座り小便をした姿勢のまま、顔色を変えた第一王子がお爺様を指さして、国王陛下に訴えかけ、それを耳にしたお爺様はジロリと第一王子を一瞥しました。
「たかが公爵とな? 現段階では王位継承権も持たない、国王陛下の息子であっても公的な身分を持たない、平たく言えば平民と変わらぬお主が、現王位継承権四位にして貴族院名誉総長である儂を『たかが』と言うか」
一周してむしろ穏やかな口調でそう言い聞かせるお爺様の眼光を前に、陶器の置物のようにその場に固まる第一王子。一度止まったはずの尿がお代わりで放出されます。
第一王子……あら、そういえばこの方って、なんてお名前だったかしら……?
遅ればせながら自己紹介もしていなかったことに気付いた私ですけれど、どーでもいいかと思い直して視線を外しました。
あー、来るんじゃなかった。木登りしたい。
「ねえ、さっきから窓の外を見ているけど、あの木に登りたいんじゃないの?」
と、その時、不意に背後から聞こえてきた幼児特有の声に振り返って見れば、いつの間にきたのか同い年くらいの珍しい水色の髪をした男の子がニコニコ笑って立っていた。
男の子の格好をしているからそうだと分かったけれど、パッと見は女の子と言われても納得できそうな中性的で柔らかな美貌のやたら綺麗な男の子だ。
「――どなたですか?」
とはいえイケメンは第一王子の例があるので警戒しながらそう尋ねると、その子は年に似合わない一人前の貴族のような流麗な仕草で一礼をしてくれた。
「初めまして、麗しの姫君。僕はオリオール公爵家の一子、ロランと申します。よろしければご尊名をお聞かせ願えませんか?」
か、格好……可愛いい! これよ、こういう展開を待っていたのよ!
貴公子との出会い。これこそが必死に猫を被って淑女を演じている醍醐味ってものじゃない。
さっきの盆暗王子とは大違いだわ。お爺様のあの様子ならどうせ婚約なんて成立するわけないし、それならこのロラン様と婚約できないかしら? 同じ公爵家だもの家柄的にも釣り合っているはずよ。
内心で、うひうひ含み笑いをながら、表面上はつんと取り澄ませた表情でカーテシーを返した。
「ロラン公子様、お初におめもじいたします。わたくしはジェラルディエール公爵の孫娘アドリエンヌと申します。お会いできて光栄ですわ」
「こちらこそ。ところで、先ほどから窓の外の木を横目でご覧になっていたようですが、あの木に登りたがっているのではありませんか?」
ずばり本心を言い当てられて、思わず視線を逸らせた私の態度を見て確信を得たのか、
「それだったら登らない方がいいですよ。あの木は病気が入ったみたいで、上の方は枯れてきていて危ないからね。それならもっと登って面白い木や、キツツキやリスの巣穴のある木が結構あるので、よろしければご案内しますよ。それに、こんなところにいたくはないでしょう?」
満面の笑みとともに小さな手が差し出されました。
貴族で子供とは思えない剣タコと木登りでできた擦り傷だらけの小さな手。
初対面だけれど、この手と誠実そうな笑顔は信用できる。
そんな気がして、私はロラン公子とともに手と手を取りあって、周囲の騒ぎ――エキサイトするお爺様と、それを宥めようと必死の国王陛下や重鎮たち。あと、別の出口から侍女たちによって運ばれる小便小僧――を尻目に、足取りも軽くこの場を後にしたのでした。
まあ、こっそり逃げたつもりでしたが、事前にロラン公子が口裏を合わせていてくれたみたいで、周りも見てみぬフリをして、結局、夕方になってて密かに待機していた王家の《影》によって、お開きにされるまでふたりで王宮の庭の探索に精を出した。
そんな私にとっては様々な意味で忘れがたい思い出。
◆ ◇ ◆ ◇
さすがにあれだけの大騒ぎを起こした責任ということで、お爺様はその後すぐに家督をお父様に譲って田舎に隠遁されてしまったわけだけれど。
「……まあ結局、婚約は破棄されずに『今後の教育と息子の将来性を信じて欲しい』という国王陛下の熱意にほだされて、お父様が婚約を正式に結んでしまわれたのよね」
お爺様は最後まで「腐った性根の人間は一生変わらん!」と言って反対していたのだけれど、実際に目の間で第一王子の醜態を見ていなかった両親は、その辺の判断が甘くなってしまったのだろう。
「少しはマシになったかと思ったのだけれど、結局はお爺様は慧眼だったとしか言えないわね」
「形ばかりのお見舞いすら寄越しませんでしたからね、エドワード殿下は」
私の独り言にこたえて、紅茶のお代わりを注いでくれながらメイドのソフィア――三代前からジェラルディエール公爵家に仕えてくれ、物心つく前からの付き合いである。ついでに言えば先日の騒ぎで人質になっていた――は憤慨してくれる。
「仕方ないわ。公式には『私たちはいなかった』ことになっているのだもの」
「そうはいっても王家には報告が行っているはずですし、あの場にはエドワード殿下の側近であるロラン様もいらっしゃたのですよ。ロラン様とルネ様からは連名でお見舞いの花束が届いているというのに」
微かに熱を含んだ口調でソフィアが“ロラン様”と言った瞬間、チクリと胸が痛んだ。
結果的に助けられた形になったソフィアは、ロランにほのかな好意を抱いているようだけれど、私としてはあの殿下の腰巾着で、なおかつどこぞの男爵令嬢に骨抜きになっている。
この二点をもって度し難い――かつて憧れた小さな貴公子はすでにいない。いるのはなれの果て――と見切りをつけている。
花束を貰っても、「なにをいまさら」という腹立たしさしかない。
(……そういえば、この間はドタバタしていたせいか、いつもの毒舌もなかったわね)
それどころかどこか妙にスッキリとした表情で、私が責め立てても困ったように柔らかく苦笑しているだけだった。
まるで、かつて出会ったあの当時のように……。
「どうかされましたか、お嬢様? ぼーっとされて」
「な、なんでもないわ。ちょっと昔のことを思い出していただけよ。昔の私はちょっとお転婆だったな、と思って」
「お転婆というよりも、ほぼ野生の猿同然だったと思いますよ」
当時の私の所業を思い出したのか、ソフィアは疲れたため息とともにそんな軽口を叩く。
「混ぜっ返さないで、ソフィア。そもそも思い出は美化されるべきなのよ」
紅茶を飲みながら私はそんな黒歴史にやんわりと蓋をしました。
「左様でございますか、失礼いたしました」と、慇懃に一礼するソフィア。
主である私に対して無礼とも思える言動だけれど、姉妹同然に育った関係で、こうしたプライベートな空間ではお互いに腹蔵なく語り合える。
そうはいっても屈託なくクスクス笑うソフィアのいつもと変わらない様子に、私は内心でほっと胸を撫で下ろしていたのは確かだった。
(良かった。先日の一件がさほど尾を引いていないみたいで……)
もちろんまったく影響がないわけはないけれど、それでも前を向いていてくれることに安堵した。
「そういえばロラン様は、私へもお見舞いの花とカード、あとケーキを贈ってくださったのですよ!」
けれど続くソフィアの言葉に、危うく飲んでいた紅茶を吹き出しそうになる。
「はあ~っ、ロラン様って本当に素敵ですね。格好いいし、強いし、優しいし……ああいう方を本当の紳士って言うんでしょうね」
夢見るソフィアから視線を逸らせて、私は小さく口の中で呟いた。
「……なによ、いまさら……」