〈番外編〉 下
その晩、リィアは居室で丁寧に紅茶をいれていた。ポットをコゼーで包み、保温しておく。こうしておけばすぐには冷めない。
紅茶はリィア一人が飲むには十分過ぎる量である。できることなら二人で飲みたいと思い、いつも二人分を用意する。忙しいルナスがここを訪れることができるのは、どんなに早くても日が暮れてからなのだ。
毎日というわけにも行かず、明日こそはという約束もできない。けれどそんな相手だと最初からわかっているのだ。寂しくても無理は言えない。
ただ、倒れてしまうほどに疲れていないことを祈るばかりである。
それにしても、ここはリィア一人には広すぎる。ぼんやりとカーテンを引いた窓の方を見遣ると、背後で扉を叩く音がした。
ドキリ、とリィアの胸が高鳴る。急いで扉に駆け付けて施錠を解くと、外に立っていたルナスが中に入るなり渋い顔をした。後ろ手に扉を閉めながら嘆息する。
「だから、相手をちゃんと確認してから開けるようにと言っているのに」
「あ、ごめんなさい。つい……」
待ち焦がれているから、いつもその言い付けを守れずに怒られる。それはいつものことで、その後もいつも通り――。
伸びて来た手が、ガウンを羽織ったリィアの体を抱き締める。そうして、ルナスは耳もとでささやくのだ。
「君に何かあったら私が困る。だから、君はもっと自分を大事にしてくれ」
「はい……」
この腕の中が心地よくて、叱られることすら嬉しかったりする。けれど、ずっとこうしているわけには行かない。ルナスは忙しい身で、時間はいくらあっても足りないのだ。
「ルナス様、紅茶をご用意してあります。お味を見て頂けますか? 今日はナッツオイルを使ってみたのです。お気に召されると嬉しいのですが」
リィアは軍を退いてからずっと、紅茶を上手くいれられるように人から教わったり、色々と試したりしている。それは王妃として必要なことではないけれど、リィアにはどうしても譲れないことであった。
ルナスが飲み続けた紅茶の味を越えたいのだ。悲しい思い出となったあの味を上書きするつもりでリィアは励み続けている。
そんな心はきっとルナスに届いているのだろう。フ、と優しく微笑んだ。
「ありがとう。頂くよ」
「はい!」
その返事をもらえると、リィアは張り切ってティーセットをテーブルに並べた。もともとリィアは子爵令嬢なのである。ただ、小さい頃から剣を振るってばかりで、こうした淑やかなこととは無縁であった。
今となっては、それもちゃんと習っていればよかったと、偏っていた自分を叱りたくなる。けれど、剣を振るっていなければ軍に入りたいとも思わず、ルナスとこうしている今はなかったとも言えるのだが。
カタカタと音を立て、あまり手際が良いとは言えない。それでも、席に着いたルナスの前に紅茶をなみなみと注いだカップを差し出す。
「さあどうぞ!」
最近、体を動かす機会は以前よりも減り、元気が有り余っているリィアは力いっぱい紅茶をすすめる。
ルナスは軽くうなずくと、綺麗な所作で紅茶をひと口口に含んだ。
「いい香りだね。美味しいよ」
にこりと美しく微笑む。リィアはそれが何よりも嬉しくて、思わず身を乗り出していた。
「本当ですか!」
すると、ルナスは美味しいと言ってくれたのに、ひと口で紅茶をテーブルの上のソーサーに戻してしまった。
あれ? とそう思ったのも束の間のことである。形のよい長い指がリィアの頬に触れる。体ごと引き寄せられ、バランスを失ったリィアの体がルナスにのしかかるような形になった。驚いた声さえも飲み込むようにルナスがリィアの唇を塞ぐ。
この美しい顔が近づくだけでも緊張するというのに、ルナスはそんなリィアの強張りが解けるまでいつも長く口付ける。紅茶の香りがほんのりと漂う。
二人の唇が離れても、その後はいつも恥ずかしくてルナスの顔はろくに見れない。耳まで赤くしてうつむくと、そんなリィアの顔を肩に押し当てるようにしてルナスが抱き締めてくれるのだった。
「たくさんリィアに話したいこともある。リィアの話を聞きたいとも思う。こうして紅茶も落ち着いて飲んでいたい。――そう思うのに、リィアの顔を見るといつもそれができないね」
ルナスが軽やかに笑う、その振動がリィアにまで伝わった。
リィアはおずおずとルナスを上目遣いで見た。間近でにこりと微笑む目がある。
「あの、ルナス様、今日、隊長にルナス様との出会いのお話をお聞きしました」
「うん?」
「あの時、ルナス様と出会っていなかったら隊長はどうなっていたのでしょうね?」
誰にも打ち解けられないまま、ひっそりと日陰に生きていたのだろうか。こんな風に、王の傍らで日の目を見ることもないまま。
そうしたら、ルナスは可笑しそうに笑った。
「デュークと出会っていなかったらどうにもならなかったのは私の方だよ。私はね、デュークが思う以上にデュークには助けられて来たのだからね」
「あら。そんなことを仰るから隊長が心酔してしまうのです。ルナス様はお小さい頃から罪作りですね」
「罪って――」
美しい容姿のためばかりではない。ルナスは瞬く間に人心をつかんでしまう。人が欲した言葉を探り当てる。それこそが王としての資質なのかも知れないとリィアはつくづく思うのだった。
「そういうリィアはどうなのかな?」
「え?」
「私の心をつかんで離さない君の方こそ罪作りだと思うけれど」
「――っ」
サラリとこういうことを言ってしまうルナスにリィアが叶うはずなどないのだ。顔を真っ赤にしたリィアを、ルナスは微笑んで見つめている。
このやり取りに慣れる日はいつか来るのだろうか。
今のところ、当分来ないとしかリィアには思えなかった。
けれどその前に、この人の隣に立つに相応しい自分にならねばならないのだ。リィアは二人で歩む未来を思い浮かべる。
それは苦難としか呼べないものであるだろう。けれど、その中には確かな喜びと幸せがある。それは与えられる喜びではない、ルナスのために共に戦うことで得られるものである。
それさえわかっていれば、恐れには負けない。
リィアも微笑んで、ルナスのそばに寄り添った。
【 番外編 ―了― 】