〈番外編〉 上
初めて、他人の瞳を美しいと思った。
あの瞬間を生涯忘れることはない――。
「隊長――!!」
騒がしい声にデュークの意識が現実に引き戻された。ほんの少しだけ木陰で休むつもりが、声がかからなければ眠りこけてしまっていたかも知れない。このところの忙しさは殺人的で、けれど自分の何倍も多忙を極めている主君を前に音を上げるわけには行かないのだ。
半年前、このペルシ王国の王城にて内戦が起こった。
首謀者は民から絶大な信頼を誇っていた宰相スペッサルティン。
スペッサルティンはペルシ王城を占拠し、王を弑した。それを鎮圧したのは、このペルシの第一王子であった。
見目麗しく、軍事国家であるペルシの王太子としては頼りなげであった彼は反乱の際に弟王子と落ち延び、援軍を従え、見事スペッサルティンの野望を打ち砕いたのである。
ただ、いかに謀反という大罪を犯したと言えど、スペッサルティンはすでに王よりも国の要であった。スペッサルティンを欠いたことで国は乱れる。
――そう、皆が感じていた。
けれど、その流れは破滅ではなく再生の道筋であると次第に民も信じ始めるのであった。
後任の宰相と共に立ち上がった王太子――若き国王ルナクレスは、臣たちと共に新体制を根づかせるべく日々忙しく身を粉にして動き続けている。それは生易しいことではなく、体も心も当人が思う以上に疲れ果てている。
その若き王の近衛隊長となったデュークは、忙しく飛び回る王の傍らで常に主君を守り続けなくてはならないのだ。このところ、休んだと言えるような時間はあまりない。
今は副隊長のアルバが王のそばにいる。王の婚約者となった娘の居住棟へ言付けを賜り、その帰りであったのだ。心優しい王が、そうでもしなければ自分のそばを離れて休もうとしないデュークを気遣って与えてくれた役目である。
その娘のいる場所は、ほんの半年前までは王が王太子として居住していた建物なのだ。
そうして、その娘もまた、半年前までは軍人であった。
リジアーナというその娘は負けず嫌いで女だてらに軍に入り、そうして現王ルナクレス――ルナスの護衛の一人となった。
ひた向きで、けれど危うくもあり、そんな彼女にルナスは守られるどころか気付けば目が離せなくなってしまったのだ。
王太子の頃より高い志を掲げたルナスだからこそ、この想いには随分と悩まされ、一度は諦めもしたのだが、運命は二人に味方した。
よって、彼女は軍を退き、今は行儀作法やしきたりを学ぶ日々である。だからもう、デュークは彼女にとって上官でもなんでもないと言うのに、その呼び名を改める気はないらしい。
「隊長、そんなところでうたた寝するくらいならちゃんと休んで下さい。風邪でもひいたら職務に差し支えますよ!」
半年を経て、伸びた髪が柔らかく肩に下り、明るい陽だまりにも似た色のドレスが案外似合っていた。以前は軍服で色香の欠片もなかったくせに、このところ目に見えて女らしくなっている。
「キーキーうるさい」
いくら王の想い人であろうと、まだ正式には王妃ではない。そこまでの敬意は払ってやらない。王妃になった後にもできれば払いたくない。かつての部下がそうややこしい立場になるとは、まるで想定していなかったことである。
リジアーナ――リィアは腰に手を当て、やれやれと言った様子で嘆息した。
「そんな子供じみたこと言わないで下さい。近衛隊長でしょう?」
子供じみているのはどっちだと言いたくなるけれど、嫌な顔をしただけに留めておいた。
「俺は家柄も何もあったもんじゃない庶民だからな。そもそも敬語すら拙いとよく怒られたくらいだ。階級が上がったところで急にお上品になるわけないだろ」
「……副隊長みたいにお上品で失礼なのも困りますけどね」
副隊長のアルバは海軍総帥の子息で、一見物腰も柔らかく丁寧なのだが、実際のところは慇懃無礼を地で行くだけの男なのだ。
「まあな。あいつの方が家柄で行けば俺より隊長に相応しいはずなんだ。認めたかないが、実力だってな。だから、あいつが隊長になった方が世間もお偉方も納得しただろうに」
アルバは武術大会を制した実力者だ。涼しい顔をしていつも人の先を歩く。そのくせ、どういうわけだかデュークが前に立つことを認めてくれている。面倒事が嫌いだと押し付けられているだけかも知れないけれど。
弱音を吐いたつもりではなかったけれど、リィアにはそう受け取られてしまったのかも知れない。呆れたような表情をする。
「隊長、ルナス様がお望みになったのは隊長なのです。身分があろうとなかろうと、そんなことはどうだっていいんです」
人々が固執する身分をどうでもいいと一蹴する。以前よりもずっと懐が広くなったのは、それだけ色々なことを経験したからだろう。リィア自身、子爵令嬢という、決して高くはない身分で王の正妃となるのだ。反発も多くあるだろう。それを覚悟したリィアに、デュークはもう何かを言える気はしなかった。
「まあな。俺はそれと決めた日からルナス様をお守りすることができればいいと思ってここまで来ただけだからな」
そう、あの日、あの瞬間から――。
ふとデュークが昔を懐かしむような目をしたせいだろうか。リィアはドレスが汚れるのも構わずに膝を付き、身を乗り出して言った。
「そういえば、隊長が初めてルナス様とご対面された時のことをお聞きしたいとずっと思っていました。わたしはルナス様を大人しい方だと思っていましたけれど、隊長はどうだったんですか? 隊長とお会いした時には最初からあのご聡明な様子でいらしたのですか?」
ルナスは王太子時代、軍事国家の世継ぎとしては周囲から侮蔑されるほど穏やかな性質を前面に出していた。目立つことを良しとせず、機を窺って身を潜めていたのだ。それは、デュークと出会った頃もさして変わりはなかった。
デュークがルナスと出会ったのは、もう十年も前のこと。デュークが十六、ルナスはまだ十歳。ほんの子供であった。
「あれは――……」
ぽつり、と言葉が零れる。
他の誰かに問われたなら絶対に答えなかった。けれど、問うたのがリィアであったから、デュークは素直に語ることができたのだと思う。
あれは、遠い夏の日――。
番外編を「上」「中」「下」に分けましたが、「中」だけ長いです(*ノωノ)