〈26〉運命共同体
「あなた、レイルさんが……レイルさんが……っ!」
普段、血相を変えて廊下を走るような妻ではないだけに、スピネルはギョッとして仕事机から立ち上がった。そのレイルは瀕死の重傷を負った人物である。
「レイルさんがどうしたんだ!?」
スピネルが妻のルチルに駆け寄ると、彼女はつぶらな瞳にいっぱい涙を溜めてスピネルの胸に飛び込んだ。
「とにかく、来て」
「あ、ああ」
妻に手を引かれるままにスピネルがレイルを休ませている客間に向かうと、ベッドには半身を起こしたレイルが呆れ顔で待っていた。差し込む日差しが当たるその様子に、スピネルはホッと息をつく。容態が悪化したわけではなかった。むしろ、もう体を起こしているのだから、ほっそりとした外見に見合わず驚異的な回復力だ。
ルチルはそこでスピネルに泣き付いた。
「あなた! レイルさんがわたしがお体のことを考えて用意した料理を、こんなの腹の足しになるかって仰ったんですよ! ひどすぎませんか!!」
そう言われてみれば、ベッドの上にはトレイに乗った空の深皿がある。
レイルはわざとらしく嘆息した。
「だって食べなきゃ回復しないだろ。こんなうっすいスープ、血にならないし。肉にしてくれ」
ルチルが目に見えてカチンと来ているのがわかったが、スピネルは彼女をなだめた。
「ルチル、君の料理が美味しいから他の料理も食べてみたくてレイルさんもこんなことを言うんだよ。ほら、彼が言うように肉料理を出してみたらどうだい?」
「そ、そう?」
「ああ、腕によりをかけて作ってくれ」
少しだけ機嫌を直したルチルが調理場へ向かう足音を聞きながら、レイルは声を立てて笑った。
「辣腕のあんたが奥さんにはカタナシか。面白いなぁ」
スピネルは嘆息する。
「そうした口が利けるほどにお元気になられたようで何よりです。大した回復力ですね」
一時は本当にこのまま死んでしまうのではないかと思うような有様だった。けれど、そう易々と死ななかった。レイルにはまだやるべきことがあるという思いが強くあるのだろう。
「鍛え方が違うと言いたいところだが、この有様じゃ説得力もないな。僕も少し自分を過信していた。僕はもっと強くならないといけないな」
そうして、レイルはぼそりとつぶやいた。
「……そうすればもっと強くなれる、か」
「え?」
声を漏らしたスピネルを、レイルは不意に鋭く睨み付けた。
「ところであんた、僕の胸にある国章を見ただろう?」
「え、あ、はい。手当てをする時に……」
不可抗力ではるが、あれは見てはならぬものではあったのだろう。レイルは更に鋭く言った。
「これは一介の商人が知っていい秘密じゃない」
「それは……」
言いよどんだスピネルに、レイルはスッと目を細める。
「一応、助けてもらったことに礼は言う。でもな、今後のあんたの運命は王となるルナスに委ねることになる」
呆然としたその顔に、レイルは猫のように意地悪く笑った。
「覚悟しておけ」
※ ※ ※
その二日後、レイヤーナ王国からの使者がやって来た。戦いに巻き込まれたティルレット姫の安否を確かめにやって来たのだ。姫はその使者と共に本国へ戻ることとなった。その時、先王の第二王子コーランデルが同行したのは、国を離れることができぬ兄の名代であるとされていたが、事実は別にある。
レイヤーナ本国にて兄に対面したティルレットは、以前のような諦観をかなぐり捨てて瞳をまっすぐに兄へと向けた。
「兄上様、私の輿入れの話は白紙に戻して頂きたいのです」
すると、ネストリュート王は麗しい微笑で言った。
「そうか、ペルシはお前にとってそれほどまでに恐ろしかったか」
「そうではありません。ペルシには再び参ります」
あまり物事に動じないネストリュートが少しだけ驚いた風に瞬いた。そうした様子の兄にティルレットは畳み掛ける。自分の中にそのような強さがあると初めて知った瞬間だった。
「レイヤーナとペルシの架け橋になる、それが私の役目と思うことに致しました。ただ、そのために私が嫁ぐのは、弟君のコーランデル様であってはいけませんか?」
「ああ、それで……」
彼を連れて戻った理由がわかったのか、ネストリュートは笑った。
「何事にも諦めが付きまとい、流されるままであったお前が私に強い想いを持って意見する。お前は私にとって可愛い妹だ。お前の幸せがそこにあるのなら、好きにするといい」
兄の言葉に、ティルレットはパッと顔をほころばせた。
「ありがとうございます、兄上様!」
そうして、軽やかな足取りで去ったティルレットの後ろを、ペルシまで共に向かった侍女の二人が追いかける。けれど、去り際にそのうちの一人は立ち止まるとくるりと振り返った。かと思うと、ティルレットが去ったのを確認すると謁見の間の絨毯の上を平然と戻る。
足音ひとつ立てず、彼女はひざまずくでもなく王座のネストリュートのもとへ登った。そんな彼女に、ネストリュート王は親しみを込めて微笑む。
「リン、ご苦労だった。報告を頼む」
リンと呼ばれた侍女はティルトのそばにいた時とは別人のような蕩けそうな笑顔でうなずく。
「あたしがんばりましたよ。ティルト様の身に危険が迫らぬ限りは何もするなっていうネスト様の言い付けを守って、がんばって手を出さずに傍観していました。偉いでしょう? 褒めて下さい」
「お前が手を出したら一瞬だ。死者が増える。偉かったな」
ネストが彼女の黒髪を撫でるとリンは満足げだった。彼女はネストリュート王の隠密的な存在の一人である。王子時代から仕える彼女は、ネストリュート王の信頼も厚い。
「それで、ペルシはどうだ? お前の目から見て、今後どのような国になると思う?」
自分の『目』として、リンをペルシに送り込むこと。それがネストリュートにとってはティルレットの婚姻よりも大切な目的であった。
リンは少女のような無邪気さでうぅん、と唸った。
「あの王子様――ああ、王様ですね。うん、なかなか素敵でしたよ。ネスト様の次にですけど」
「そうか」
「えっと、軍は宰相のお陰で二分されました。二大公爵の片方も謀反に加担しちゃってましたし。……これだけ聞くと、国がガタガタって思うでしょ?」
「違うのか?」
「それが、面白いんですよ。謀反に加担したんだから死罪でも爵位の剥奪でも文句は言えないじゃないですか。で、あの王様は謀反に加担した人たちの軍籍を抹消したんですよ。そうして言ったんです。『軍事力によって身を守っていたはずの我が国だが、その軍事力こそがアリュルージへの侵略、今回の反乱を起こすもとになった。そのすべては武力による損害だ。何が本当に国のためであるのかを思えば、必要なものは過ぎたる武力ではなく、互いを尊重する心である。隣人を敬う心こそを皆が持つべきだ』って」
ほう、とネストリュート王は感嘆を漏らす。リンもにやりと笑った。
「あの王様の周りにはなかなかの人材が集まるようにできてます。それでもネスト様があの国を欲するなら、不安定な今ならば手に入れることはもちろん可能です。どうされますか?」
わかり切った答えを訊ねるリンにネストリュート王は苦笑した。
「私には必要ない。あの国を確かな王が治め、我が国に損害を与えることがないとわかればそれでいい」
リンは満足げにうなずく。
「はい。いつかは条約を結び直す日が来るんでしょうね」
「そうだな――」