〈19〉守る意志
篭城も三日目に突入したその日の朝、パールの居室の外では動きがあった。外から声を張り上げるのは、以前やって来た兵士と同じ人物だった。
「姫様、まだここへこもられるおつもりですか? そろそろこちらにおいで下さい」
ダンダン、と扉を叩く音が響く。パールはその音でびくりと体を震わせた。リィアがとっさに覆いかぶさるようにパールを抱き締める。腕の中で震えるパールを守ろうとリィアは強く誓うのだった。ティルレットの侍女たちもティルレットを守る壁のように前にいる。
ガツン、と扉に衝撃が与えられた。中の者たちは皆、体を強張らせてそちらに目を向ける。外の声は尊大に響いた。
「少々強引なご招待が必要のようですね」
カルソニーを始めとする兵士たちはこの居室が破られる時が近いと覚ったようだった。それぞれに剣を携え、その柄を握り締めて身を固めた。
リィアは怯えるパールを抱き締めたまま、バリケードが破られる音を聞いていた。ガツンガツン、そんな鈍い音の他に投石が窓を割る甲高い音もした。ガラスの破片が降る中を、兵士たちは窓から差し込まれた手を斬り付け、物を投げては応戦する。
けれど、相手もやられっ放しではない。窓だけではなく、扉も破られるのは時間の問題だった。バリケードにしたソファーやテーブルを必死の形相で押さえる兵士たちはろくな食事もせずにいた。力など出るはずもない。
向こう側から来る衝撃の波に、彼らも次第に疲れて押され始めた。カルソニーもそこへ加わり扉が破られるのを防ごうとしたけれど、そう長くは持たなかった。決壊したバリケードと共に数人の兵士が吹き飛ぶ。リィアの背後で短い悲鳴が上がった。姫か侍女か、どちらの声であったのかもわからない。
中へ押し入ろうとする兵士と、それを防ごうとする兵士。双方の乱闘が幼い姫の居室で行われた。リィアはパールにその惨状を見せないよう、彼女の頭を自らの胸に押し付けるようにして抱き締め続けた。
キィン、キィン、と剣を合わせる音と苦痛の叫び。リィア自身も顔を背け、耳を塞ぎたくなるような光景だった。それでも、皆は戦った。
「謀反人どもを姫様方に近付けるな!」
猛々しい声は次第に消え、立つ人々の少なさにリィアも愕然とした。味方で最後に立っていたのはカルソニーだけである。その彼も傷だらけだった。普段は端正な顔が殴られた箇所を腫らして歪み、苦悶に満ちた面持ちで辛うじて立っている。歯を食いしばりながら応戦する彼に、兵士の一人が更に斬り込む。その先を見るよりも先に、リィアはパールからそっと体を離した。そして背後のティルレットに託す。
「パール様をお願いします」
するとティルレットは傷付いたような悲しげな顔をした。
「あなたは……」
リィアはうなずく。
「わたしは軍人ですから、わたしも戦います」
呆然とするパールに軽く微笑むと、リィアは立ち上がってショートレイピアを抜いた。自分の力量では数十人もいる兵士を止めることはできないけれど、少しでも時間稼ぎになればいい。恐ろしくて堪らないけれど、そのうちルナスが来てくれるという希望があるだけで戦える。そうした自分だと信じよう。
カルソニーの援護をするため、彼を取り巻く一角を突いた。レイピアの切っ先に手ごたえを感じ、リィアはそれを払った。涙が滲みそうになるその瞬間を、必死で堪える。背後に油断があった兵士が悲鳴を上げて突かれた腕を押さえた。
「こいつっ!」
カッと見開かれた目がリィアに向けられる。その次の瞬間には、横から伸びた兵士の腕がリィアの束ねた髪をつかんだ。
「っ!!」
力加減のない痛みにリィアが顔をしかめると、その隙に数人の兵士がリィアに向かい、その手からレイピアをねじり取った。そうして、血の付着した乱暴な手がリィアの顔をつかむ。
「この女、王太子付きのヤツだ。ほら、懐剣を下賜されて噂になってた……確かヴァーレンティン中佐の娘で」
「ああ」
そんな声が上がる。リィアはその不快な手を振り払おうともがくけれど、数人の屈強な兵士に押え付けられてはびくりともしない。そんな中、リィアの視界の端でカルソニーが床に崩れ落ちた。その脇腹を、一人の兵士が蹴り上げる。
「女の前だからってカッコつけてんじゃねぇよ。お前みたいなヤツがオレは一番嫌いなんだよ!」
卑屈な声だった。家柄と容姿と、それに伴う人気があるカルソニーは、彼のような凡庸な人間にとっては妬ましい対照であったのだろう。平素は内心で僻んでいただけかも知れない。けれど、こうした無秩序の中にあっては、日頃の鬱憤が発露する。
リィアはその大儀もない身勝手な私憤に眩暈がした。
「止めて下さい! そんなことをしてあなたは情けなくないのですか!」
思わず叫ぶと、髪をつかむ手が更に強まる。苦痛に顔を歪めたリィアを、カルソニーを苛む兵士は睨め付けるだけであった。リィアの正義感は彼らの劣等感を煽る。
彼の他にも数人の兵士が同じ心境であったのかも知れない。他の兵士もまた、カルソニーを蹴り上げる。上手く行かない現状への苛立ちを抱え、日々の不満を周囲に向ける。変化を簡単に望み、他人の動きに便乗する。
彼らにとって、カルソニーの命などどうでもよいのだ。今なら咎められることなどないのだから。
このままでは殺されてしまう。止めなければ思うのに、リィアは身動きひとつできなかった。叫んでもそれは変わらない。
兵士の足が仰向けにされたカルソニーの腹を踏み付けるようにして高く上がった。リィアのひと際甲高い悲鳴が上がり、兵士は喜色に歪んだ顔で足を振り下ろした。
けれど、薄汚れたカルソニーの服の上に純白が差し込んだ。それがドレスであったことを認識した瞬間に、兵士はとっさに足を止めようとした。内臓を潰すつもりで力一杯踏み付けたのだ。止めたとしても完全に力を相殺できたわけではない。カルソニーの上に身を投げ出したパールの背に、兵士の足が食い込む。
「パール様!!」
悲鳴を上げなかったのか、上げられなかったのか。
パールはゴホ、と咳き込んだ。
「と、突然飛び出して来るから」
兵士もうろたえていた。体の小さなパールは兵士たちの足もとを掻い潜ってカルソニーのもとへ到達したのだ。恐ろしくなかったはずがない。
「とにかく、確保しよう」
と、兵士の一人がパールに手を伸ばす。けれど、パールの腕はほとんど意識のないカルソニーの首に回り、その体にかじり付いていた。幼い姫だというのに、腕が抜けるほどの力でカルソニーにしがみ付く。この手を離してしまえば彼は殺される。それがパールにもわかるのだ。
どんな時もパールを見守り、不器用ながらもその身を案じた青年の心を、パール自身がどんなに感謝していたのかがわかる。守られることばかりであったパールが、身を挺して守ろうとする。彼女もまた、大切な者のために強くなったのだと、リィアは涙がこぼれた。
力強く引き剥がそうとすればするほどにパールを壊してしまいそうで、兵士たちはパールを彼から引き離すことができなかった。
そんな時、この場の空気が変わった。
兵士たちが次々に道を開ける。リィアの視界に光が広がった。その中を歩いてやって来たのは、スペッサルティンであった。リィアは眼がこぼれそうなほどに目を見開いてその鷹揚とした姿を見た。
裾の長い最高位の文官服。手には扇を持ち、スペッサルティンは微笑む。
「おや、何を手間取っているのかと思えば……」
と、居室の中を見回し、スペッサルティンはすべてを察したようだった。それからティルレットに向けて眉尻を下げて恭しく頭を垂れる。
「ティルレット姫、このように血腥い事態に巻き込んでしまい、申し訳ございません。ですが、あなた様には感謝しているのですよ」
「感謝?」
ティルレットが侍女に守られながらつぶやくと、スペッサルティンは満足げにうなずいた。
「あなた様がおられることで、レイヤーナからの横槍が入らずに済みます」
すると、ティルレットは果敢にもスペッサルティンを睨み返した。
「私を人質にということですか?」
「いえいえ、あなた様は大切なお客人ですとも」
そうして、スペッサルティンの視線がティルレットから外れた。パールに視線を落とすと、兵士の一人に指示する。
「助かる可能性のあるものには手当てを。ただし、変節を条件としなさい。それから姫がこの者と離れたがらないのであれば、侍女を使ってこの者の手当てをして共に軟禁しておくように」
「はっ」
スペッサルティンの蛇のような瞳が最後に捕らえたのはリィアの姿だった。数人の兵士に取り押さえられたリィアに、スペッサルティンはゆっくりと歩み寄る。リィアはじわりじわりと肌が粟立つのを感じた。
にこりと微笑むスペッサルティンの皺の刻まれた顔は薄暗かった。
「君は王太子殿下のお気に入り、ヴァーレンティン一等兵ではないか」
リィアは返事をせず、その代わりに睨んでやった。けれど、それくらいでスペッサルティンが怯むはずもない。クスクスと耳障りな笑いを振り撒かれた。
「君がここにいることが何を意味するのだろうか。天が味方するのはどちらであるのか、それを君には特等席で眺めさせてやろう」
「何を……」
リィアが唖然としてつぶやくと、スペッサルティンは扇をさっと開いてひと扇ぎした。その瞳は底冷えのするほどの冷気を放っている。
「連れて行け」
その言葉通り、リィアは抵抗も虚しく一人引き離された。