〈18〉継承
スピネルがルナスを案内したのは、彼の邸宅の客間に当たるところであった。ルナスと彼に付き添うデュークは無言でスピネルに続いた。
「ルナス様をお連れしました。入りますよ」
彼がそう断って扉を開く。そこにいたのは、上質の柔らかなベッドに身を沈めた人物であった。ルナスにはそれが一瞬誰であるのかが判別できなかった。それほどまでに、その人物は判別しづらい姿をしていた。頭や顔、頭部の肌の見える部分が少ないのだ。白く清潔な包帯や綿布に覆われているのは、それだけの傷を負っているということ。けれど僅かに覗くそのチャコールグレーの髪には見覚えがあった。
気付いた途端、ルナスは弾かれたように室内に駆け込んだ。
「レイル!!」
自分の名を呼ぶ声に、レイルはうっすらとまぶたを開いた。そうして、首をルナスの方に向ける。そうして、心底ホッとしたように声を漏らした。
「来たか……」
苦しそうなレイルに代わり、スピネルが状況を説明してくれた。
「城で暴動が起きていると騒ぎになった時、私はルナス様が例の通路を使われるのではないかとあの出口を見張らせていました。その間に一度、兵が私の屋敷へもルナス様を捜しに来たのです。屋敷の部屋すべてを見せて、どこにもルナス様がいないと知って帰りましたが。その後で私が出口を確認しに行ったところ、そこに瀕死のレイルさんが倒れていました」
レイルは身体能力に優れ、並の兵士では相手にならない。それでも、生身の人間である。傷付けば血も流れるのだ。ルナスはレイルを城内に見送ったことを悔いた。
血が滲むほどに噛み締めた唇が震える。
そんな彼にスピネルは続けた。
「私は急いでレイルさんを連れ帰りましたが、それでもレイルさんはルナス様に会うのだと言って聞きませんでした。ルナス様を必ずお連れすると言ってようやく納得して休んでもらったのですよ……」
「そうだったのか。ありがとう、スピネル」
スピネルがこの屋敷を離れられなかったのは、再び兵士がやって来た時に主人のスピネル以外ではレイルを守れないからだろう。スピネルはゆるくかぶりを振った。
乾いた唇でレイルが何かをつぶやいた。ルナスはその声がよりよく聞こえるようにベッドのそばに膝を付く。そして、今にも息絶えてしまいそうに弱々しいレイルの握り締めた手を取ろうとした。その時、レイルの手は素早く動き、逆にルナスの手を捕らえた。その動きにルナスが驚いて瞠目すると、レイルはいつものように不敵な笑顔を痛々しくも作るのだった。
「これをあんたに。王からの預かりものだ」
そう言ったレイルの握り締めた手の平から現れたのは、大振りなエメラルドの指輪であった。その指輪は王の証として父の指で煌いていたもの。玉璽であるこの指輪を、何故レイルが持っているのかはわからない。満身創痍であることから、敵陣を突破して来たのだと思われる。この王の証さえなければ、スペッサルティンは新王と名乗りを上げることはできない。彼の手に渡してはならないと無理をしたのだろう。
「レイル……なんて無茶を……」
ルナスが感情に声を詰まらせると、レイルは苦笑した。
「でも、リィアはまだ中だ。悪いな」
「わかった。もう無理をして喋らなくていいから、ゆっくり休んでくれ。兵力も集まったから、これから城内に突入する。リィアもちゃんと連れて戻る。待っていてくれ」
玉璽を受け取り、そのままレイルの手を握り締めると、レイルは穏やかに笑った。
「ん……」
レイルは力尽きたようにまぶたを閉じた。その手からがくりと力が抜けた瞬間、ルナスは冷水を浴びせられたように心臓が萎縮した。後ろからデュークがそっと声をかける。
「眠ったようですね」
ホッと息をついたのはルナスばかりではなかった。
「気を失っていても手だけは固く握り締めて開こうとされませんでした。こういうことだったのですね」
レイルの手を離したルナスに、スピネルは更にためらいがちに告げる。
「あの、傷の手当をする時に目にしてしまったのですが、レイルさんの胸には刻印がありました。蔦を噛み切る獅子――国章です。権利の象徴である国章を許可なく身に付けることは法に触れるはずです。そのようなものが刻まれたレイルさんは……」
言葉尻を濁したスピネルは、レイルの正体を正確に知ったわけではない。けれど、勘のよいスピネルには彼がどのような働きをして来たのかについては察することができたのだろう。それは玉璽を受け取ったルナスも同じであった。
「また、元気になったら訊ねるよ。今度こそ、ちゃんと答えてくれるはずだ」
この玉璽を持つに相応しいとレイルが認めてくれた。そのことが、ルナスにとっては玉璽そのものよりも心強かった。これを譲った父王の心も。
ルナスはいつも装着している白手袋のない指にその玉璽をはめた。一番しっくりと来るのは中指だった。この圧倒的な緑の輝きに気圧されるけれど、押し潰されてはいけない。
この証に相応しい人間であれ、とルナスは自分を奮い立たせた。