〈13〉レイル
「っ……」
荒い息を繰り返し、レイルは木の陰に身を沈めた。ぽたり、ぽたりと血が草の上に落ちる。額を切ったせいで血が目に入った。視界が赤く濁る。切ったのは額だけではない。彼の白い文官服は半分以上が赤黒く染まっていた。
レイルはあの時、まず王の寝室から抜けることを第一に考えた。進入した天窓から外へ飛び出したものの、敵はなかなかに優秀であった。弓術に秀でたベリルの護衛の青年が、素早く別の部屋へ回り込んでそのテラスから矢を射掛けて来た。それを掻い潜るレイルは、そのうちに壁を伝うこともできずに窓のひとつを蹴破って城内に逃れた。けれど、そうすることで追い付いたターフェアやオーランとの戦闘は避けられなくなった。
初手で一人を仕留めた。けれど、ターフェアとオーランは厄介であった。
特にターフェアはアルバと対戦していた時よりも格段に腕を上げていた。敗戦が彼を磨いたのだろう。彼は本当に、戦うために生まれたような人間だとレイルは苦々しく思う。
それでもレイルは善戦した。身体能力は個々で見るならばレイルが格段に上なのだ。
利き腕と足の腱をレイルに斬られ、最早動けなくなった彼らは、武人として生きられぬことを恥じたのか、最後には自刃した。これが自らの進む道を見誤った者の末路だ。
レイル自身もそうした危うい場所を生きている。どちらかしか生き残れない、そんな世の中なのだ。情けはかけない。
知るべきではないというのに、レイルの正体を知ってしまった者は葬らねばならない。これも国の守護者としての宿命である。弓使いの青年もレイルを探して飛び込んで来た瞬間を狙って倒した。
傷だらけだというのに動き、血を失ったレイルは強い眩暈を感じた。ここで休んでしまえたらどんなにか楽だろうと思う。
けれど、自分はまだ休めないし、まだ死ねない。
もう一度あの穏やかすぎるくらいの顔を見て、この玉璽を授けなければならない。その役目が、レイルを突き動かした。
体を引きずるようにしてふらりと木陰から立ち上がると、レイルは動き出した。美しかった庭園は、踏みにじられて見る影もない。人気はあったけれど、それぞれが他人に構うゆとりはなかったようだ。
「レイルーン様!」
同時に発せられた二人の声が寸分違わず調和する。濁ったレイルの視界に映るふたつの影があった。
「クラム、ゼスト……」
この双子は、レイルの手となり足となるように幼い頃から共に教育されて来た。けれど、彼らはどこか危機感と覚悟が足らない。レイルにとってはあまり頼りになるとも思えず、ごく稀にしか用事を言いつけることもなく、ほとんど放置していた。それでも、偶の用事を嬉しそうに引き受ける二人は、どこか飼い犬のようだという情も湧いていたのかも知れない。
「ひどいお怪我を……」
とっさに兄のクラムが手を伸ばす。二人なりにこの動乱の中、レイルを探していたのだろう。
レイルはその手を遮り、強い口調で二人に告げる。
「僕にはこれから行かなければならないところがある。だから、お前たちに後を頼む」
「は、はい」
弟のゼストもまた気を引き締めた。
「パルティナ姫のところにリジアーナ=ヴァーレンティンって娘がいる。王太子の護衛のあの娘だ。そいつを僕に代わって守れ」
この傷では、そこにまで足を向けられない。
ルナスの想いを知るからこそ、絶対に助けなければならない存在なのだ。
クラムとゼストはふたつ返事ではなかった。すぐに返答できなかったのは、レイルの状態のせいだろう。満身創痍のレイルを逃がし切ることを彼らは優先したかったのだ。
それでも、レイルの命令は彼らにとっては絶対である。苦しげに呻くように言うのだった。
「了解、致しました」
レイルはその答えににこりと微笑む。
「よし。それでこそ僕の部下だ」
何かを言いたげな二人に、レイルはそれ以上の言葉を許さなかった。
「じゃあ、僕は行く。頼んだぞ」
二人の気を散らさないよう、レイルは痛みを堪えながら駆け出した。乾いた傷口から、再び血が噴き出す。懐の玉璽が、まるでレイルの心臓のように脈打つ気がした。歪む視界の中、レイルは外壁に向けて走った。
ルナスの居住棟の通路はルナスに使わせないために潰しておいた。楔を打ち込み、開かないように。レイルにはその外壁の上を越えて行く身体能力があった。だからこそ、潰しても中へ戻れた。
ただ、この傷ではそれも容易なことではない。レイルは人っ子一人いない物悲しい居住棟の一角で外壁を見上げた。そして、覚悟を決める。
鎖を手に巻き、それに繋がる刃を突き立てるようにして壁を登る。足が自分のものとは思えないほどに重く、鈍かった。それでも出っ張りから足を踏み外さないよう、懸命に登った。体をこすり付けてしまったため、外壁に血が付着した。これでは跡を辿られてしまう。それでも、今のレイルには落ちないでいることが精一杯であった。
荒く喘鳴を繰り返し、頂上を越えた。隠し通路の分、開いた場所を越えて、向こう側に降りる。同じように刃を立て、足をかけて行く。けれど、鎖を巻き付けた手は次第に感覚を失い、膝も思うように動かなくなった。
天才と謳われ、期待を一身に背負って、年若くして守護者となったレイルではあるけれど、無様な自分の様子に状況も忘れて嗤いが顔に浮かぶ。
それでも、なり振りなど構っていられない。それほどまでに強い思いがレイルを動かす。
ルナスにこの玉璽を届ける。それがレイルの役割であり、願いであった。
ふと、この気持ちは何から来るのだろうという気になる。
王など代替品だと言ったのは自分だ。その自分が何故、こうも強い想いでルナスに未来を繋ごうとするのか。
絶対と思えるただ一人。それを戴くことを、忠誠と呼ぶのではないだろうか。
どれくらい降りたのか、下を確かめることができなかった。そんな時、膝が崩れてレイルは均衡を失った。すでに限界を超えたレイルの体は、ただ落ちるだけであった。背を地面に叩き付けられる形になり、レイルに更なる苦痛が加わる。息が詰まって、ようやく呼吸ができた時にはうつ伏せになることしかできなかった。それでも、レイルは胸もとの玉璽を握り締め、もう片方の手で草をつかんで這う。
「後、少し……」
血を吐くような思いでそう漏らした。
それでも、ほんの少し進んだところでレイルは力尽きた。意識が薄れる中、最後に自分を見下ろした人影があったように思うのは、気のせいであったのかも知れない。