〈11〉レガリア
レイルが単身で向かうのは、城内の一角であった。そこは最上階に位置する。
城内を普通に抜けるのは最早無理なことである。廊下は乱闘の場であり、スペッサルティンは王家に忠実な兵士の一掃にかかっている。国力を落としたくないと思うなら、無闇な殺生は悪影響であるけれど、王家を見限れぬ兵はスペッサルティンにとって害をもたらす。そこは仕方のない判断であったのだろうか。
城内の様子を窓から覗き見て、それからレイルは城の壁を登った。人目に付かぬよう、ひっそりと。戦いに明け暮れる兵士たちの目に、レイルの動きが映ることはなかった。レイルはこの城を誰よりも知り尽くしている。レイルだけが知る通路がそこかしこにある。ルナスが使っていたあの隠し通路などその中のたったひとつに過ぎない。そのすべてを受け継いだのはレイルただ一人である。
もともと、この要塞のような城はこうした時のために装備がなくとも登れる造りになっている。ただ、それは知識と身体能力があってこそである。足をかける順のひとつを間違えただけで先には進めない。レイルはただの一度も間違えることなくその壁を登り切った。
そして、聳える城の頂上へ到達した。
そこから下を見下ろすと、反乱の始まりを告げた兵舎の火の手はすでに収まったものの、そのひと棟はほぼ燃え尽きていた。それでも未だに煙は上がり続け、黒い煤を撒き散らし、敷地を汚していた。倒れた人々もまばらにいる。
レイルはそんな光景を目に、ギリ、と奥歯を噛み締めた。
「この国は、沈み行く運命なのか――?」
天窓から降り注ぐ光をベッドの上で仰ぐのは、国王その人であった。まだ、生かされていた。彼に使い道があるというのか。レイルはその天窓から中を覗く。そんなレイルに国王は気付いてハッと息を飲んだ。けれど、胸の辺りで組んだ手は動かず、落ち窪んだ眼窩の中で眼だけをギョロリと動かす。その顔は、ひどくやつれていた。王妃さえもそばにいないのは、別の部屋に軟禁されているせいだろう。
「……毒を盛られたか? もう動けもしないからこそ、最後の時を静かに迎えさせてやろうっていう、スペッサルティンのせめてもの情けか?」
そう声をかけ、レイルは猫のように軽やかに王の寝室の中へ身を投じる。緋色の絨毯の上に音もなく降りると、レイルは王の枕元に立った。そんな彼に王はかすれた声を発した。
「――イル――ン……」
「なんだ?」
王に対しても敬意などない。平然とそう返す。そこには憐れみさえもなかった。
「私は……」
つ、と王の乾いた肌を涙が伝う。レイルはその様子に嘆息した。
「あんたも憐れだな。王として立つには足りないものばかりだった。それを補える存在がスペッサルティンだと思った、それがそもそもの間違いだ」
あれは、この王に扱える存在ではない。それに気付こうとしなかった結果がこの惨状である。愚かな王は国を傾ける。口で言うほどに同情の余地など感じられなかった。
「私の……足りぬものを補うのは、あれの母で、あった。けれど、私は、女であるのに、あの聡明さが、疎ましかった。足を向けず、耳を貸さず、そうして……」
それは、最期の懺悔であったのかも知れない。平凡なこの王は、他者の輝きに嫉妬し、受け入れることができなかった。その相手を尊敬し、相談できる関係が築けていたなら、スペッサルティンの甘言に翻弄されることもなかったと思える。ただ、それができる強さをこの王は持ち合わせていなかった。
命が残り僅かとなって、ようやくそのことを認めることができたのだろう。
ルナスと距離を置いていたのは、母とのそうした関係のせいと言える。母親に生き写しの息子の顔を見るだけで、この王には責め苦のようであったのだ。
「レイルーン」
再び、王はレイルの名を呼ぶ。
「なんだ?」
王の目は、すでに見えていなかったのかも知れない。虚空に視線を漂わせたまま、王は組んだ手の指から大粒のエメラルドの指輪を抜いた。
もどかしく思うほどに震える指で外した指輪。鮮やかに深く輝くそれは、玉璽である。宝石の部分をずらせば、そこに印がある。
王は力を振り絞ってそれをレイルに手渡した。さすがのレイルも、その玉璽の存在に緊張が走った。王はこの重みに堪えて生きて来たのだ。大器とも呼べない王にとって、それはどんなにかつらいことであったと、ふとレイルは感じた。
玉璽を手放し、王は肩の荷が下りたのか、どこか開放感に満ちた穏やかな微笑を浮かべていた。
「お前が選んだ者へ、授けて、ほし、い。その正当なる王の証を――」
託されたものは、国そのもの。
これを相応しき王へと授けろと言う。
レイルの心は、ここを訪れる前から定まっていた。
「――確かに承った」
その言葉に、王は満足げにうなずいた。
【疑惑の章】のラストで会話していた二人、あれはレイルと国王でした。