〈2〉虚偽と歪
「……こんな抜け道があるなんて」
ルナスたちの秘密の通路。ルナスの居住棟のすぐそばの外壁の一角から続く通路は城下へと続いている。ルナスたちはコーラルと共にそこを抜けるのであった。
コーラルは険しい視線をそこかしこに向けていたけれど、ルナスは落ち着いて歩いた。ルナスがこの道をコーラルに知られても構わないとするのなら、護衛のデュークたちに言うべきことはなかった。
上方から陽が差し込んではいるけれど薄暗い通路を抜け、真っ向から飛び込んで来る光にコーラルは目を眩ませていた。ルナスはそんな弟にそっと言う。
「すぐそばに開けたところがある。そこでいいだろう?」
「はい」
そんな兄弟に、護衛たちは心配そうな顔を向けることしかできなかった。
開けた場所――背の低い草が生えただけの、城壁の背に隠れてしまうようなところがあった。ルナスはこうした場所でデュークやアルバの指南を受け、剣術に励んで来たのだ。
「……兄上はこうしてよく城を抜け出していたのですか?」
不意にコーラルがそう言った。ルナスはクスリと笑う。
「そうだね。城の中にいては気付けぬこともあるからね」
コーラルは無言でその場所に佇む。ルナスも覚悟を決め、その向かいに距離を保って立った。デューク、アルバ、ジャスパー、三人の護衛はそんな二人を厳しい面持ちで見守るのだった。
ルナスは剣を抜く前に、城の中では常に装着している白い布手袋を脱ぎ捨てた。手の感覚を確かめるように結び、そしてコーラルにペリドットのような輝きを持つ瞳を向ける。
「それでは、始めるかい?」
コーラルはこくりとうなずく。互いにそれぞれの剣の柄に手を添え、短く呼吸を整えると最初の一撃に備えた。長く幅のある両手持ちの剣を一気に引き抜き、コーラルは間を置かずに踏み込む。美しく佇むルナスの痩身は、その風圧でさえもまともには受けられないかのように思われたことだろう。
それでも、ルナスは柳のようなしなやかさを持ってその攻撃を掻い潜ると、細身のサーベルを抜き放って振り向きざまに叩き込んだ。お互い、本物の剣である。それでも、二人の動きにためらいはなかった。
コーラルは外見からは想像もできないルナスの戦い慣れた動きに驚いている風ではなかった。
重々しい剣を自らの手足のように操ると、その攻撃を受け止めた。そして、唸るように低くつぶやく。
「やはりか」
ルナスは答えずにコーラルから距離を取った。競り合えば長くは持たないとわかり切っているのだ。
コーラルは一度構えた剣を下に向け、声を漏らした。
「やはり兄上は虚偽に塗れている。その優しげな風貌の下にそうした実力を隠して、周囲を欺いて生きている。私には兄上が到底理解できない!」
実直で嘘もつけないようなコーラルには、ルナスのことが理解できない。そうした弟であると知りつつ、ルナスは理解されようという努力を怠っていたのではないだろうか。
夢を、理想を語り、理解してほしいと願うことを諦めてしまった。
きっとそれは無理なこと。共に歩めるなどという未来はなく、そんなものは願望に過ぎぬのだと。
理想を願うのならば、対峙するしか道はないのだと。
けれど、それは果たして正しい判断であったのだろうか。
この弟は融通は利かぬ性質ではあるけれど、愚昧ではない。こちらも熱意を持ってぶつかれば、いつかはわかり合えたのかも知れない。その衝突を恐れたのはルナスの方であったのではないだろうか。
「コーラル……」
立派な青年として成長したはずのコーラルが、何故か幼い頃のままに見えた。不安に泣くこともあり、手を繋いでルナスのことを確かめる、そんな幼い頃のままに。
再び振りかぶられた大剣は、大きく風を切ってルナスへ向かう。ルナスは滑るようにサーベルの柄頭を切り返して逆手で宙を薙ぐ。キィン、とひと際甲高い音が鳴った。
その接触に、二人の顔が近付く。コーラルは苦しげに顔を歪めて呻いた。
「兄上は、何を考えておいでなのですか? どうされるおつもりなのですか? この国を、あの姫を、どう――」
ルナスはこの弟の中に深い迷いを見た。
常に自分の考えを持ち、強い意志で腕を磨いていた。迷いという歪がコーラル自身を蝕む。
彼ははっきりとした答えを求めている。ルナスはその心に向き合う決意をした。
「私には私の理想とする国の形がある。私が虚偽に塗れているというのなら、すべてはそのためのことだ。私はそれを恥ずべきだとは思わぬ」
まっすぐにコーラルの目を射る。その意志に、コーラルの瞳が揺れた。
「……では、姫のことは? 兄上は彼女を妃として迎えるつもりが本当におありなのですか? 他に想う女性がいるのではないですか?」
そのひと言に、今度はルナスの方が隙を見せた。すると、コーラルはルナスを弾くように剣を振るう。ルナスは飛び退くと距離を保ち、そうして剣をコーラルに向けずに立つ。そんな姿に、コーラルは再び厳しい目を向けた。それでもルナスは言う。
「想う女性がいると、そのことを否定するわけではないけれど、何も特別な関係にあるわけではない。婚儀は執り行うつもりだ」
その途端に、コーラルはギリ、と奥歯を噛み締めた。
「それでは姫が憐れです。そのようなお心で、姫を幸せになどできるのですか?」
それはあまりに、コーラルらしからぬ言葉だとルナスは感じた。
以前の彼ならば、国のため、民のために自らも犠牲にするような考え方をした。王族である以上、民のために生きねばならないと説いたことだろう。
それが、ティルレット一個人の幸福を願う。
「コーラル、君は――」
そんな時、遠くで叫び声が轟いた。