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落日のレガリア  作者: 五十鈴 りく
双糸の章
134/167

〈17〉始まりの予感

 ティルレットは、もう眠るからと侍女たちにも休むように言い付けた。けれど、本当は眠ることなどできそうもなかった。目が冴えて、どうにもならない。

 そろりと部屋を抜け出す。


 夜気は寒かった。何か羽織り物を持って来ればよかった、としばらく歩いてから思った。薄い寝衣で出歩くのははしたないかも知れない。けれど、もう夜も更けたこんな時間に誰かと出くわすとも思えなかった。小さな手燭を持ってふらりと敷地を歩く。


 この城にはいくつかの棟があり、その一角をティルレットは借りている。この国の末の姫の近くだった。末姫パルティナは、心の傷により居室に閉じこもりがちなのだという。まだ顔を合わせたことはないけれど、同じ王女としての苦労を思うと、そんな姫を身近に思うのだった。


 少し歩くと、整えられた池があった。その池の中央にかかる橋を渡る。けれど、ティルレットはその途中で足を止めた。手燭を橋の上に置き、欄干にしなだれかかる。落ちるほどではないし、仮に落ちても溺れるほどの深さもない池である。

 何故かそれでもその危うい場所を選んでしまうのは、心が不安定であるからだろうか。


 どうでもいい。それどころか、もし自分の身に何かあったとして、あの王太子がうろたえる様子を思うと少しだけ胸がすく。

 ――みっともない。醜い。

 こんな自分だから、姉のようには幸せになれないのだ。


 そう思うと涙が滲んだ。せめてそんな醜い自分の姿を水面に映して、気を引き締めようと思った。情けない顔をするな、と。

 身を乗り出した瞬間に、どこからか荒々しい音がした。その靴音に驚いて振り返るよりも先に、驚くべき力でティルレットの腕が引かれた。


「っ!!」


 バランスを保てずに投げ出されたティルレットの体は、それでも地面に叩き付けられることはなかった。

 硬い腕がしっかりと華奢なティルレットの体を抱き止める。けれどそれは一瞬のことであった。すぐに体を離すと、その人物は恐ろしいほどに鋭い目をして怒鳴った。


「どこの誰かは知らぬが、馬鹿なことをするな!」


 あまりの勢いに、ティルレットは息が詰まって返事ができなかった。声をなくしてガタガタと震えていると、その青年は完全にティルレットから手を離した。そうして、バツが悪そうに言う。


「命を粗末にしてはいけない」


 死ぬつもりなんてなかったというのに、この青年は身投げを食い止めたつもりでいるのだ。さすがにこれは弁明せぬわけにはいかなかった。


「わ、私は水辺を眺めていただけで、身投げをしようとしていたわけではありません。勘違いさせるような行動であったことは詫びますが……」


 ティルレットがおずおずと言うと、彼は薄青い瞳を大きく見開き、それから気まずそうに沈黙してしまった。あまり口が達者な方ではないのかも知れない。

 それでも、青年はぽつりと言った。


「それは――失礼した。けれど、婦人がこのような時間に薄布で出歩くのは感心しないな」


 途端にティルレットは恥ずかしくなって青年に背を向けてしまった。


「ご、ごめんなさい。誰にも会わないと思っていたもので……」


 すると、青年は嘆息した。


「その認識は少々甘いのではないか。こうして私に出会っているのだからな」

「本当に、そうですね……」


 彼はティルレットをどこの誰かは知らぬと言った。寝衣姿では身分も何もわからぬことだろう。

 また、ティルレットにも彼が誰かはわからない。それでも、鍛えられた無駄のない体から武人であるのではないかと推測された。それも、身なりから察するに、それなりの身分のある――。


「では、風邪などひかぬうちに部屋に戻るようにな」


 にこりともしないまま、彼はそう告げる。そうしてここで別れてしまえば二度と会うことはないのかも知れない。

 何故かそれがとても嫌なことに思われた。

 愛想笑いのひとつもしないで、恐ろしいまでの双眸で睨まれたというのに、不快感はまるでなかった。彼は真剣にどこの誰とも知れないティルレットの身を案じ、叱ってくれた。笑顔を浮かべずとも、その実直さを感じたのだ。言葉のひとつひとつに嘘がない。


 虚飾に塗れた城で育ったティルレットには、彼のそんな姿に興味を覚えたのかも知れない。

 傍目には愚直と言われてしまいそうな青年の飾り立てぬ優しさが、荒廃した心に染みたのだった。

 だから、彼が去ろうとした瞬間に振り返り、気付けば口走っていた。


「あの!」

「うん?」

「明日のこの時刻にもう一度お会いすることは叶いませんか?」


 青年は怪訝そうに瞬く。


「何故この時刻だ? 用があるのならば日の高いうちにすればいい」


 その言葉にティルレットは顔を歪めた。

 自分の立場を思えば、日の高いうちに別の男性となど会えぬのだ。

 複雑な事情を察したのか、彼は戸惑いつつもうなずく。


「まあよい。了解した。ではな」


 素っ気ないほどの返答。それでも、ティルレットは胸の前でキュッと手を握り締めた。

 何かが動き出す、そんな予感だった。

 

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