〈7〉覇王
ザルツと入れ替わりに出て来たのは、二十代半ばほどの赤毛を束ねた青年だった。傍らには線の細い麗しい貴婦人がいる。菫色のドレスと長い白手袋が目に鮮やかだった。
青年はどこか陽気な雰囲気を持っている。それでも、身なりから察するに王侯貴族だろう。彼はルナスの姿を認めると一瞬目を見開いて、それからにこりと友好的に微笑んだ。
「やあ、こんにちは」
随分と砕けた口調である。ルナスは少しばかり驚いたけれど、礼儀正しく返す。
「お初にお目にかかります。私はペルシ王国王太子ルナクレス=ゼフェン=ペルシと申します。体調の優れぬ王の名代で参りました」
一瞬、彼のにこやかな表情に警戒の色があった。けれど、次の瞬間にはそれを覆い隠すほどの朗らかさを見せる。見た目以上に賢い人だとルナスは思った。
「ペルシの! それは会えて光栄だな。私はキャルマール王国王太子、ジュセル=ルーザ=キャルマール。こちらは妻のキャティリーンだ」
美しい髪を揺らして優雅にお辞儀をする王太子妃は、うっとりとルナスの顔を眺めていたように思う。それに気付いたジュセルがなんとなく体をずらして間に立った。
「義兄上にお会いできたことだし、戻ろうか」
「わたくし、もう少しこちらの方とお話してみたいですわ」
「……帰ろうよ」
がっくりと項垂れるジュセルに、ルナスはそっと声をかける。
「義兄上ということは、奥方様はネストリュート王の妹君であらせられるのですね?」
キャティリーンは頬を染めてうなずく。
「ええ。ネスト兄様にお会いしたのは久し振りですけれど、お元気そうでしたわ」
そういえば、レイヤーナとキャルマールは婚姻によって結び付きを強めているという話だった。王族である以上、政略結婚は付きものである。
それから、レイヤーナ人であるキャティリーンは例に漏れず美しいものに心惹かれる様子だ。そんな妻にやきもきするジュセルとは、これはこれで仲睦まじいのではないかと思われる。
「では、失礼するよ!」
言葉は爽やかだが、内心では少々穏やかではないのだろう。本当ならジュセルにもペルシからやって来たルナスと話したい気持ちはあっただろうに。
「……なんだったんだ、今の」
レイルでさえ、思わずそんなことをぼやく。ルナスも返答に困った。
そうこうしているうちにザルツと夫人が謁見の間から戻り、ルナスの名が呼ばれた。すれ違いざま、ザルツは無言で笑みを見せた。ルナスも無言でそれを受けると、一度目を伏せた。
そうして、しっかりと気を引き締め、奥に待つ覇王との対面に備えるのだった。
対応ひとつ間違えただけで国が揺らぐ。今から会うのはそうした人物なのだ。
「行こうか」
ルナスは意識して落ち着いた声を出し、皆は声をそろえて返事をした。
華々しく下がった垂れ幕の続く中を歩く。落ちた影のひとつひとつが、まるで足を絡め取るかのように感じられた。近付けば近付くほどに、心が震える。
それでも、背後には信頼する腹心たちがいる。だからこそ、ルナスは前を向いて進むことができた。
垂れ幕が切れ視界が広がると、そこには整列した軍人が規則正しく敬礼していた。その遠く先に玉座がある。そこに座す存在がいる。
圧倒されてはいけない。堂々と、心を強く。
美しく光が落ちる中を、ルナスは一歩一歩を踏み締めて歩いた。次第に王座の上の姿が目視できるようになる。段の手前で立ち止まれば、ネストリュート王の姿をはっきりと瞳に映すことができた。
柔らかく淡い色の髪の上に星屑のように宝石をちりばめた王冠を頂くその姿は、威風堂々と間違いなく覇王の風格であった。豪奢な真紅のマントも縁に毛皮をあしらい、それは見事なものである。それらの装飾品に『飾られている』と相手に思わせないだけの存在感は、やはり恐るべきものだった。彫刻のように整った顔立ちに締まった体躯、端正でありながらも弱々しさなど欠片もない。否を打ち出すのならばその隙のなさかと言いたくなるほどの様子だった。
第五王子であろうと、彼が真の王であると誰もが認めてしまうのも仕方のないこと。初対面のルナスでさえもそう思わずにはいられなかった。
ルナスが膝を折り敬意を払うと、後ろのデュークたちもそれに従った。ルナスは頭を垂れながらも、声には屈することのない意志を潜ませる。
「お初にお目にかかります、ネストリュート国王陛下。此度めでたく生誕の時を迎えられましたこと、心よりお慶び申し上げます。私はペルシ王国王太子、ルナクレス=ゼフェン=ペルシ、体調の優れぬ王の名代で参りました。どうぞお見知りおき下さいますようお願い致します」
ルナスは自分の発言のひとつひとつをこの場の誰もが一言一句漏らさずに聞いているのだと感じた。それだけの緊張感が伝わって来る。それでも、自分の役割をしっかりと胸に刻み、自分を保った。
すると、王座から天の声かと思うような声が降る。
「遠路遥々ありがたいことだ。ペルシ国王陛下の御身が御快方に向かうよう、私も祈らせてもらおう。ルナクレス王子、君もこの国は初めてだろう。どうかしばらく滞在してくつろいで頂きたい。精一杯のもてなしはさせてもらう所存だ」
本国のこともスペッサルティンやコーラルのことも気がかりだが、こう言われてとんぼ返りというわけには行かない。ルナスはぐ、と腹に力を込めて顔を上げた。
「お心遣い、痛み入ります」
ルナスが見上げるネストリュート王の瞳は、ガラスのように繊細で透明感に溢れながらも、底の知れない渦のようだった。それに飲まれまいと、ルナスはせめて微笑を浮かべて見せる。彼を前に、心にゆとりなどないけれど、それを悟らせてはいけない。
一見友好的に感じられる態度であっても、ネストリュート王は敵とも言える相手なのだ。それは互いの立場を思えば仕方のないこと。
ネストリュート王はそんなルナスのささやかな努力を見透かしていただろうか。微笑を返してその大きさを知らしめるのであった。