〈1〉名代
【双糸の章】は全20話です。
お付き合い頂けると幸いです。
世界の片隅にひっそりと存在する小さな島国の集合体、ブルーテ諸島。その最北に位置する最大の国土を持つ王国ペルシ。
そのペルシ王国には『美しき盾』と民衆から揶揄される王太子がいた。
艶やかに流れる黒髪と、ペリドットを思わせる輝く瞳。美しく整ったその姿は、軍事国家であるペルシの王太子としては相応しくないほどに優美であった。
そうして、その王太子ルナクレスは、その麗姿に違わず戦を厭い、深窓の令嬢のように居室で過ごしているのである。だからこそ、民衆は彼を『宝石をあしらい、傷ひとつないままに美しく壁に飾られた盾のようだ』と風刺する。
ただ。
王太子ルナクレスは外見に見合った穏やかな性質を持ちながらも、その心には強い意志を秘めている。軍事国家というこの国の在り方に疑問を持ち、それを変えて行くのだと。
そんな彼の心を知る人間は、ごく僅かである。
それでも、彼を支えるべくそばに侍る側近たちも確かにいるのであった。
ルナクレスことルナスの護衛隊長であるデュークを筆頭に、副官アルバ、新入りの少女兵リィア、そして、謎の文官レイル。
半月ほど前、秘密裏にルナスは自らの祖父であるゼフィランサス前宰相に会いに行った。その時にデュークは片目を負傷するという災難に遭う。その時の傷はまだ癒えてはいない。それから、皆がそれぞれに抱えた心の傷も。
なんとか日々を過ごす中で、そんなルナスにお呼びがかかったのである。
それは、父である国王からの呼び出しであった。
「――レイヤーナへ?」
謁見の間において、ルナスはひざまずいたまま呆然とそう返した。そんな息子に、父王はうなずく。
「そうだ。私の名代として行ってくれるな?」
レイヤーナとは、隣国レイヤーナ王国のことである。若き王、ネストリュートが覇権を握る、現在の諸島で最も勢いのある国である。かつては諸島一と謳われたペルシが衰退の兆しを見せつつあるその隣で、レイヤーナは輝かしく発展して行く。
それはこの父王の招いたことであり、ネストリュートの引き寄せたことである。
そのネストリュート王の生誕の祝いに、この父の名代として王太子であるルナスに行けというのだ。
ペルシは諸島内ですでに孤立している。どこへ行こうとも、この国を出れば周囲の目は冷たい。
それをわかっていても、断るという選択肢はルナスには用意されていない。
背後でまだ十分に傷の癒えていないデュークが歯噛みしている気配があった。ルナスは努めて穏やかな笑顔を父王に向ける。そうして低頭した。
「謹んで承ります」
その言葉に、父王はホッとしたようだった。優柔不断で押しの弱い面を持つ父王は、それでもルナスが断る可能性を心配していたのだろう。
「王はこのところお体の調子がが芳しくございません。王太子殿下が赴いて下されば、我が国の体面は保たれます故、これでひと安心でございますな」
王の傍らに立ち、満面の笑顔でそう述べた老年の男は、宰相スペッサルティンである。彼は王を裏で操り、国の実権を握っているも同然だった。彼にとって、ルナスは邪魔な人間のうちに入るのだろう。
それでもルナスは、目立たぬように凡庸に努めて来た。今はまだ、敵対する時ではない、と。
「王太子殿下の優美なお姿を誰もが賞賛することでしょう。楽しみでございますな」
見てくれただけのぼんくら王子、その外見を前面に出して笑っていればそれでいいとスペッサルティンは暗に言っているのだ。
それでも、ルナスは紅毛氈の上で立ち上がると、まるで絵画のように麗しく微笑んで見せた。
「王太子として私にできることを精一杯させて頂きます」
父王は一瞬だけ不安げに視線を泳がせた。
「う、うむ。抜かりのないように、頼んだぞ」
「はい、もちろんです」
そう答えるルナスは、ふわりとした笑顔であった。そこには争いを好まぬ穏やかな気質しか感じることはできなかっただろう。スペッサルティンの目が、僅かに侮蔑を孕む。
ルナスは礼を尽くして退出した。それに付き従っていたデュークもまたそれに続く。
足早に居室へ戻るルナスに、デュークは低く押し殺した声で言った。
「……いくら俺でも、今回ばかりはわかります。スペッサルティンはこの機に何か仕掛けて来るつもりでしょう」
ルナスも苦笑する。
「恐らくね」
けれど、彼がどう動くつもりであるのか、今のルナスにはっきりとした判断はできなかった。
レイヤーナ行きは確定事項であり、ネストリュート王との会見も避けては通れない。ルナスには備えなければならないことが山積しているのであった。