〈22〉自らの価値
リィアは小さくうめき声を上げた。自分の頬を執拗に叩く手を感じたのだ。軽くで痛みなどないけれど、ただうっとうしかった。眉根を寄せた瞬間に、その声に気付いた。
「リィア、リィア――」
美しい響きの声が哀切に自分の名を呼ぶ。
リィアはハッと目を見開いて飛び起きた。けれど、その途端に頭がズキリと痛んだ。とっさに手を当てて顔を歪めた瞬間に、この痛みがすべての出来事を思い出させてくれた。
「よかった、気が付いたね」
心底ホッとした様子で優しく言ってくれたルナスの姿に、リィアは震えが止まらなくなった。周囲には誰もいない。ツァルドの姿も。何故かルナスと二人だけで農地が広がる場所にいる。あの小さな宿ではない。
「あ、あ……」
リィアが声にならない音を漏らすと、ルナスはリィアを安心させようとしてくれたのか、努めて優しい声で言った。
「もう大丈夫だから、何も心配しなくていい。デュークもちゃんと治療を受けているから。戻ろう」
その言葉を聞いた瞬間に、リィアは消えてしまいたい気持ちでいっぱいになった。狂ったように首を振る。
「わ、わたしはもう戻れません! 本当なら、ルナス様にだってもう顔向けなんてしてはいけないのに!」
「リィア?」
尊い身分のルナスが膝をついてまで、気遣わしげにリィアを宥めようと心を砕いてくれる。それを感じるからこそ、余計に苦しくなった。ぼろりと涙がこぼれ、抑え切れない感情が言葉に表れる。
「わたしのせいで隊長が! わたしはルナス様から大切な臣下を奪ってしまったんです!」
失明してしまったデュークには、再び軍人として生きて行くことはできないだろう。今の地位には最早しがみ付くことができない。ルナスのそばでその身を守ることができないのだ。
それはデュークにとって何よりの苦痛で、命を奪われたも同然である。
こんな言葉をルナスに言ってはいけないと思うのに、止めることができなかった。涙の溢れる目を閉じて、リィアは叫んだ。
「わたしに隊長の目ほどの価値なんてありません!!」
その途端に、痛いほど強くリィアの体を抱き締める腕を感じた。そのことに驚いて涙が止まる。
あたたかな体温と僅かに耳にかかる吐息を感じ、リィアは涙と同時に思考も停止してしまった。この状況は一体なんなのかと。
ルナスの声は切なく、どこか熱を帯びて響く。
「君は何も悪くない。デュークもそう言うだろう。だから、そんなことは言わないでくれ」
言葉と共に腕が強まる。この息苦しさは締め付けからなのか感情からなのか、リィアは判断ができなかった。
その苦しさはどこか蕩けるように甘美で、力強く守ってくれる腕に身を委ねたくなる。
けれど、リィアは頭のどこかで冷静に思った。自分は守られる立場ではなく、守る側の人間なのだ。
こうしてルナスが自分を助けに来てくれたことが信じられないほどに嬉しくはあるけれど、それはいけないこと。守られるべきは尊い御身のルナスの方である。アルバもジャスパーもおらず、そのルナスを危険にさらしてしまっている。
これでは本末転倒だ。
いつかのゼフィランサスの言葉が蘇る。ルナスはリィアに守られることなど望んでいない、と。
弱い自分は、ルナスにとっては護衛どころか庇護の対称であるのか。
もし、この腕の中を心地よいと感じてしまったのなら、それは護衛としての自分よりも、あれほど否定したがっていた女性としての自分が勝っている証拠である。
うるさいくらいに騒ぎ立てる心臓の音は、どちらのものであろうか。
リィアは優しい言葉と力強い腕に守られることを素直には受け入れられなかった。
「ルナス様、わたしは……」
苦しげに声を漏らすと、ようやくルナスはハッとしたようにリィアを解放した。そんな彼にリィアは言う。
「わたしは、やっぱりちゃんと隊長にお会いしなくてはいけませんね。会って、お詫びを申し上げなければ」
もし、なじられるようなことがあったとしても、それはリィアが受け止めようと思う。必要ならば、その目として生きてもいい。だから、戻らなければと。
そう冷静に思えたのは、ルナスがいてくれたからだと思う。
「リィア……」
ルナスの今の行動は慰めに過ぎなかったのだと、リィアはそう思う。ルナスならば他の誰かが同じ目に遭っても同じことをしたのではないだろうか。
わけ隔てなく優しい、そうした人であるのだから。
何も自分はルナスにとっての特別な存在ではない。
それだけはどんな時も弁えていなければならなかった。