〈19〉怒り
町に着いてすぐ、ルナスはざわめく心を落ち着けながらそこにいた。町の喧騒が耳をすり抜ける。
「ルナス様」
アルバの声にルナスはハッとして振り向いた。何か落ち着かない空気の馬屋に馬車を預けたアルバも、いつになく様子のおかしなルナスに気付いたのだろう。もともと勘の鋭い青年なのだ、その不安が何に由来するのかも見抜いているのかも知れない。
「では、参りましょう」
「ああ」
町の往来の分岐点にある表札を目印に、フィーナから聞き出した番地へと向かう。レイルはよくわからないが、ジャスパーはウヴァロから遠く離れたことがないので、ここでもすべてが物珍しそうだった。
西へと折れた時、妙に通りが騒がしかった。賑やかというのではなく、それはもっと剣呑なもの。男性たちは騒ぎ立て、女性は肩を抱いて震え上がり、子供は泣いて恐ろしさを訴えていた。その重苦しい空気に、ルナスとアルバは顔を見合わせる。
いても立ってもいられなくなり、ルナスは足を速め、そして気付けば駆け出していた。多分、その騒ぎの地点が目的地であると、疑いもなく感じてしまった。アルバもレイルもジャスパーもそれに続く。
ざわめく野次馬たちが遠巻きにしている一軒の小さな宿。そこはやはり、フィーナが告げた場所であった。
ルナスはその中へ迷うことなく飛び込んだ。そして、その入り口にいた従業員の女性に、弾む息を落ち着けることもせずに問う。
「すまない、ここへ、眼帯をした青年か、波打った髪と、赤褐色の瞳を、した女性が、来なかっただろうか……?」
その必死の様子に、従業員の女性は戸惑いつつも大きくうなずいた。
「は、はい、あの、眼帯をした人は奥に――」
ルナスにしては珍しく、最後まで話を聞かずに礼を言って奥へと急いだ。その後に三人が続く。従業員の女性はその勢いに目を白黒させた。
狭い宿の中、部屋は訊ねずともわかった。そこにいた客も従業員も、すべての者の意識がその部屋へ集中していたのだ。
開け放たれた扉の奥に見えたものは、宿の経営者と従業員らしき男に囲まれて座り込んでいるデュークの姿だった。宿の経営者らしい男はデュークの顔を白い布で押え、従業員の男に何かを言っていた。その白い布に滲むのは明らかに血の色であった。その髪にも血が絡み、服も染まっている。それはあまりに無残な状況であった。
「デューク!!」
目の当たりにしたものが信じられず、それでもルナスは駆け寄ってデュークのそばに膝をついた。
その姿を見ることはできなくとも、デュークは主の声に反応した。
「ルナス、様」
デュークの血に汚れた手が宙をさまよう。ルナスはためらいなくその手を取った。
「ここにいる! 一体何があった!?」
自分の手がみっともなく震える。ルナスはデュークの手を更に強く握った。
デュークはようやく少しだけ気を抜いたのかも知れない。その手が重みを増した。
「あいつ……懐剣を下賜された時にリィアが絡んでいたいあの男が……」
ルナスの中であの日の光景が思い起こされる。
初めて出会った日。怯えを隠しながら男たちに屈せず対峙していたリィア。そんな彼女に嘲笑を向けていたあの男――。
「彼がデュークをこのような目に遭わせたのか?」
デュークは力を振り絞るようにしてようやくかすれた声で言った。
「ヤツにリィアが連れ去られました。申し訳、ありま、せ――」
ガクン、とデュークの腕の力が抜ける。その途端に、ルナスの心臓は鷲づかみされたように縮み上がった。
「デューク!!」
そばにいた経営者の男はその成り行きを待って、控えめに告げる。
「気を失ってしまわれたようです。ほとんど気力で意識を保っておられたのでしょう。殴られただけではなく……目に深い傷を負っておられます」
「目って、それ、かなりまずくないか?」
背後でレイルの声がする。ルナスはデュークの手を離すと静かに立ち上がった。そうして、冷え冷えとした声を出す。
「アルバ」
「はい」
アルバも厳しい面持ちで答えた。ただ、ルナスの口から飛び出した言葉は、アルバの想像の上を行くものであった。
「アルバ、デュークを頼む」
返答を待たず、ルナスはふらりとアルバの脇をすり抜けた。アルバは今の主の危険性を見過ごすことができなかったのだろう。その頼みを素直には聞き入れられなかった。
「ルナス様! 俺にヤツを追わせて下さい。必ずや御前に引きずって参ります」
けれど、ルナスの声はいつものようなあたたかみをまるで含まず、その美貌は壮絶なまでに凍て付いていた。
「言い方が悪かったね。アルバ、デュークに付いて治療に当たるように。これは頼みではない。主として私が下す命令だ」
「ルナス様!」
「だから、私の後を追わないこと。このふたつを命じる」
命じる、とそれを言われてしまえば、アルバには逆らうことなどできない。苦しげに歪めた顔に心で詫びながら、ルナスは部屋を飛び出した。
浅はかだと、愚かだと止める声が自らの中にある。
それでも、奪われたものは失うことなど考えられぬもの。
傷付けられたものは、何があろうとも許せぬもの。
どんな時も感じたことのないような激しい怒りがルナスの中に渦巻いていた。
遠くで、アルバの声が聞こえた。
「レイル、ルナス様を追ってくれ!」
自らが動けぬのなら、それしかない。そう判断したのだろう。
それに対し、レイルがどう返答したのかはわからない。ルナスはそれに構わず、ただ懸命に走った。
走るたびに腰に佩いたサーベルがカチャカチャと音を鳴らして邪魔だったけれど、それを放り投げることはできなかった。この先できっと必要になる、そう思えたのだ。