〈16〉待ち合わせたかのように
フィーナが遅い。リィアは訝しく思いながらも待った。
出立は明日にしてくれたのだ。今日は多少の時間はある。
ただ、退屈だし美味しいと言っていた茶も出ては来ない。それでも素直に待っていたリィアの耳に足音が飛び込んで来た。けれど、その足音はフィーナのものではあり得なかった。ドスドスドス、と存在を主張するかのように、あるいは怒りを表現するかのように荒々しかった。
それがこの部屋の前で止まった時、リィアは嫌な予感がした。恐る恐る背後の扉を身を捻って振り返る。そうして、ノックもなく開かれた扉にびくりと肩を跳ね上げた。バン、と大きな音を立てて入り口に立っていたのは、不機嫌極まりない隻眼の上官であった。
「た、隊長!!」
どうしてここにと問う前に、リィアは慌てて椅子から立ち上がろうとした。その途端に、彼女の災厄は始まった。何故かドレスのスカートがテーブルの脚にくくり付けられていたのである。急に立ち上がったせいで、ガーターベルトをした太ももの辺りまで露出してしまった。
これにはデュークも驚いたようで、唖然としていたけれど、リィアが顔を真っ赤にして上げた悲鳴で我に返ったらしく、とっさに扉を閉めた。通行人の目に触れないための配慮だろう。
この時になって初めて、リィアはフィーナの策略に気付くのだった。遅すぎる、と人は言うかも知れないけれど。
「こっち向かないで下さい!!」
「……お前、間抜けにもほどがあるぞ」
背中を向けたデュークから心底呆れた声が漏れたけれど、今はそれどころではない。
涙目になって焦って結び目を解こうとすると、余計に上手く行かなかった。それでも一生懸命がんばった。それが取れた頃にはひどく疲れ果ててしまったけれど。
「も、もういいです。ありがとうございました」
がっくりと項垂れたリィアの言葉に、デュークが振り返る。そうして、リィアの方へスタスタと歩み寄った。顔がいつもにも増して怖い。この醜態のせいだろうか。
見上げる勇気がなく、リィアはうつむいたままほてった頬を両手で包み込んだ。その頭上から声が降る。
「出立時間が迫っているのに出かけるとは、いい度胸だな」
「え?」
そのひと言に、リィアは思わず顔を上げ、それから再びええ? と声を上げた。
「え、あの、出立は明日って――」
すると、デュークは眉根を寄せた。
「何を寝ぼけてる? ルナス様が城を空け続ける危険性を考えろ。一刻も早く戻りたいところだ。ゼフィランサス様との名残はお尽きにならないと思うがな」
眩暈を感じて、リィアは再び項垂れた。あんなもっともらしい嘘がよくつけたものだと。
その嘘はリィアの将来を案じて、その気持ちがつかせたものかも知れない。それでも、ルナスの言葉を騙ったことは例えどのような理由であろうと、誰であろうと許してはいけない。
戻ったらきつく叱ろうとリィアは心に決めた。
「あの妹に騙されでもしたようだな。最初はお前ともう少し一緒にいたいからかと思ったんだが、あっさりとお前を残して帰るし、あいつは何を考えてるんだ?」
デュークにしてみれば心底不可解であるのだろう。けれど、フィーナの企みを教えることなどできなかった。
リィアの配偶者に丁度いいと、少しでも進展するようにこうして二人きりになるよう仕向けられたなんて。
ちらりとデュークを見上げる。不機嫌そうな顔をしていた。
この人をどう思うのか。リィアは自分の胸に自問してみる。
上官で、渋々ながらも稽古を付けてくれたりする。
仲間意識は強く持っているし、もちろん嫌いではない。リィアに優しくはないし、すぐに意地悪なことを言う。それでも、上官だと思いながらも、言いたいことを言い合えるような気楽さがあった。
忠誠心は厚く、そうした面を尊敬はしている。
けれど。
一人の男性として、という風に意識したことはなかった。これはデュークに限らず、アルバやレイルに対しても同じだ。自分はそうした恋愛よりも剣術の方がよほど熱心なのだ。
フィーナが望むような感情をデュークに持てと言われたところで、そんなものは急に芽生えるはずもない。
リィアは苦笑いしてごまかすのであった。
「わたしにもさっぱりわかりません」
そうして、早くこの場を切り上げることだけを考えた。
「さ、隊長、急いで戻りましょうか?」
「お前なんて捨てて行けばよかったな」
やっぱりひどい。意地悪だ。リィアはぐさりと傷付いた。
思えば、最初から好意的であったことなどほとんどない。心の中では未だにリィアのことを足手まといだとか不必要だとか思っているのだろうか。
そう考えると悲しくて、腹が立った。リィアはムッとしてデュークをすり抜けて扉に向かった。ドアノブに手をかけ、振り向きざまに言う。
「捨てて行かれても追いかけますけどね!」
そして、先に部屋の外へ出ようとドアノブを回し、扉を開いた。その途端に伸びて来た腕に、リィアはとっさに反応できなかった。
「!!」
口を塞ぐ手と、体を締め付ける腕。その懐の中でリィアは辛うじてその顔を見た。
「お前は……」
デュークの瞳がカッと見開かれる。ツァルドはリィアを腕の中に収めたまま、低くのどを鳴らした。