〈11〉ゼフィランサス
リィアはその後、迎えを待たずにそのままゼフィランサスの邸宅へと自ら向かった。
王都へ戻る前にはもう一度アンターンス家に顔を出すつもりだが、今の自分はこれでもルナスの護衛なのだから、なるべく彼のそばにいなくてはと思う。
使用人の庭師を捕まえて用件を話すと、にこやかに対応してくれた。中へと誘われ、重要人物が住まうとは思えないような簡素な造りの扉を開くとあっさりと入れてくれた。そして、いかにも熟練といった風な老年の庭師は言う。
「ここの廊下をまっすぐ行って左に曲がれば応接間だ。そこにいらっしゃるよ」
「ありがとう」
あっさりしすぎだと思うけれど、ここは穏やかだ。これでいいのかも知れない。
リィアは足を踏み入れた時、最初の一歩で立ち止まってしまった。その玄関先には数枚の肖像画がかけられており、その中の一枚に釘付けになる。
楕円の枠に収まったその人物は、真紅のドレスをまとい、艶やかな黒髪を結って微笑んでいる。その美しさは稀代とも言える。何も知らずにこの肖像画だけを見せられたのなら、この美女はきっと空想の産物だと錯覚したのではないだろうか。それほどまでに完璧な美であった。
ただ、リィアはその麗容をよく見知っている。
「ルナス様(の女装)にそっくり……」
思わずそんな言葉が口からこぼれる。
この女性は、間違いなくルナスの母親だ。つまり、今は亡きゼフィランサスの娘である。
若くして亡くなった彼女は、ルナスにとってどんな母親だったのだろう。リィアはその肖像画を眺めながら思いを馳せる。
そんな時、リィアに声がかかった。
「あまりに似ておられるから驚いただろう?」
ハッとして振り向くと、そこにはゼフィランサスの姿があった。ルナスに見せる穏やかな印象から今は少し厳しく感じられ、リィアは背筋がピリリと引き締まる思いだった。
「は、はい。本当にお美しいですね」
正直にそう言うと、ゼフィランサスは目もとの皺を更に深くして微笑んだ。
「それがあの娘にとって幸運なことだったのかはわからぬがな」
「え?」
けれど、ゼフィランサスはそれ以上のことを続けるでもなく、話題を変えた。
「君はアンターンスのところのセラフィナの姉だそうだな」
「はい。妹がいつもお世話になっております」
「いや、私の方こそあの娘には助けられているよ。まだ若いがしっかりと気配りのできるよい嫁だ。アンターンス男爵も喜んでいる」
それを聞いて、リィアはホッとした。
若すぎるフィーナを囲む面々がそう感じてくれているのなら、フィーナ自身が言ったように幸せに暮らしているのだろう。
表情を和らげたリィアに反し、ゼフィランサスはふと目を細めた。
「時に君は殿下の護衛であるそうだが、今後もそのつもりでいるのかね?」
何故、そんなことを訊ねられたのかがわからなかった。だから、リィアは迷いなく答える。
「もちろんです」
まっすぐなリィアの瞳に、むしろゼフィランサスの方が戸惑いを見せたように思う。
「殿下の周囲は、今後ますます危険なものとなるだろう。護衛はその命を賭してでも御身をお守りせねばならぬ」
どくん、とリィアの胸が高鳴る。
激動の幕開けを感じた。
胸もとに手を添え、リィアははっきりと想いを口にする。
「この命に代えてもお守り致します」
けれど、その言葉にゼフィランサスは納得するでもなかった。更に疲れたような目をリィアに向ける。
「君に守られたところで、殿下は嬉しくなどないのだよ」
鈍器で殴られたような、そんな衝撃だった。
「え……」
思わず声が漏れる。呆然とするリィアに向けるゼフィランサスの顔は、まるで幼い子供を諭すようであった。
「むしろ、ご自分のせいで女性の君が傷付くようなことになれば、殿下は深く悔いられることだろう。殿下はそうしたお方だ」
そうかも知れない。
あの優しい気質は、リィアが傷付けば悲しんで自分を責めるのだろう。
でも、それならば。
リィアが彼らと共にある理由がない。
「……セラフィナや父親のことも悲しませるような真似をしてはいけない。これは、私からの忠告だ。娘に先立たれた私からのな」
ゼフィランサスの奥深い瞳には、真剣にリィアの身を案じてくれる気持ちと悲しみが灯っていた。だからこそ、リィアはその言葉がいつまでも頭から離れなかった。
リィアがなりたい自分と、周囲が求める自分とがどうしても重ならない。