第75話 影から来た新しい仲間
放課後。
青葉高校の廊下を、一ノ瀬晴人はいつものように歩いていた。
「今日の動画、何にするかなー」
鞄を肩にかけながら、晴人は楽しそうに考えている。
炎の勇者チャンネルの部室では、すでに結衣たちが待っている。
今日は何か面白い企画を決めたい。
それだけを考えている晴人には――自分のすぐ後ろを、一人の少女が音もなく追っていることなど、気にする必要すらなかった。
いや。
正確には。
晴人は気づいていた。
気づいた上で、何も言わなかった。
「……」
晴人の影。
そのすぐ内側を滑るように、一人の少女が歩いている。
長い髪。
整った顔立ち。
そして、学校という場所には少し不釣り合いなほど完璧な所作。
四月一詩音。
いや――。
今の彼女は、異世界で晴人に仕えていた暗殺メイド、シオンだった。
周囲に生徒がいる間は、誰にも見つからないように徹底して気配を消している。
足音はない。
呼吸すら感じさせない。
視線も必要以上に動かさない。
人の流れに紛れながら、晴人との距離だけを一定に保つ。
その姿は、護衛というよりも影そのものだった。
しかも、シオンは意図的に誰かへ見つかろうとはしていない。
今日の目的は、晴人の仲間たちと顔を合わせること。
ならば、部室までは主の邪魔をしない。
そう判断していた。
「シオン、そこまで気配を消さなくてもいいんじゃないか?」
前を歩く晴人が、突然そう言った。
「……」
シオンの足が止まる。
「お分かりでしたか、マスター」
「そりゃ分かるって」
晴人は振り返らない。
「シオンの気配、昔から知ってるし」
「……そうでしたね」
シオンは小さく微笑んだ。
それだけだった。
しかし、そのやり取りを聞いていた生徒は一人もいない。
いや。
聞こえていたとしても、二人が普通に話しているようにしか見えないだろう。
シオンの声は、それほど自然に周囲へ溶け込んでいた。
やがて二人は部室の前へ到着する。
晴人が扉へ手を伸ばした。
その瞬間。
シオンの姿が、すっと消える。
「……」
晴人は何も言わない。
そして、部室の扉を開けた。
「おーっす!」
「遅いよ、ハルト」
中では結衣が机の上に資料を広げていた。
その隣には聖奈。
凛と摩夜、陽葵もすでに集まっている。
「お疲れ様です、ハルトさん」
「主、お疲れ様です」
「君、今日は何を撮るつもりなんだい?」
「勇者様がお戻りになりましたね」
いつもの部室。
いつもの仲間。
晴人にとっては、何も変わらない放課後だった。
「今日は新しい動画の――」
晴人が話し始めた、その時。
凛の表情が変わった。
「……誰だ」
低い声。
同時に椅子を引く。
立ち上がった凛の視線が、部屋の隅へ向いた。
「凛?」
結衣が振り返る。
凛は答えない。
ただ、じっと一点を見つめている。
何かいる。
そう感じた。
しかし――見えない。
音もしない。
気配もほとんどない。
それでも、確かに何かがいる。
騎士団長として鍛え抜かれた凛の感覚が、そう告げていた。
「そこにいるな」
凛が一歩前へ出る。
すると。
晴人の足元に落ちていた影が、わずかに揺れた。
「……え?」
結衣が目を見開く。
影が、人の形へ変わっていく。
まるで最初からそこに立っていたかのように。
一人の少女が、すっと姿を現した。
「はじめまして」
少女は丁寧に一礼する。
「四月一詩音と申します」
部室が静まり返った。
「…………」
「…………」
「…………」
誰も言葉を発しない。
最初に動いたのは凛だった。
腰を落とし、いつでも動ける姿勢を取る。
「主から離れろ」
鋭い声。
しかし。
「まあまあ、凛」
晴人が手を上げた。
「大丈夫だよ」
「主?」
「この子、シオンだから」
「…………は?」
凛の目が丸くなる。
「シオン?」
「うん」
晴人は当然のようにうなずいた。
「異世界で一緒に旅してた仲間。今は四月一詩音って名前なんだ」
「……」
凛は詩音を見る。
そしてもう一度、見る。
先ほどまで、凛は完全に気配を見失っていた。
それはつまり。
自分が護衛対象として最優先している晴人のすぐ近くに、この少女が存在していたことすら気づけなかったということだ。
「……いつからそこにいた」
「マスターが廊下を歩き始めた時からです」
「最初から!?」
結衣が思わず声を上げる。
詩音は静かにうなずいた。
「はい」
「じゃあ私たちが部室にいる間も……?」
「はい」
「ずっと!?」
「はい」
結衣の顔が引きつる。
その隣では、凛がわずかに肩を震わせていた。
「私が……気づかなかった?」
「それは私が気配を消していたからです」
詩音は淡々と答える。
「ですが、マスターには最初から気づかれていました」
「そりゃ、シオンだしな」
晴人は笑った。
「昔から隠れるの上手かったんだよ」
その言葉に、詩音の表情がわずかに柔らかくなる。
「お褒めいただき、ありがとうございます。マスター」
「いや、褒めてるというか……」
晴人は少し考えた。
「昔と変わらないなって思っただけ」
「……はい」
詩音は嬉しそうに微笑んだ。
その様子を見ていた結衣は、何となく胸の奥がもやっとするのを感じていた。
――まただ。
またハルトの昔を知っている人が増えた。
しかも今回は。
「……メイド?」
結衣が尋ねる。
「はい」
「ハルトの世話をしてたの?」
「異世界では、身の回りのお世話と護衛を担当しておりました」
「……」
結衣は黙った。
自分はハルトの幼馴染。
学校でも動画でも、ずっとハルトを支えてきた。
聖奈は資金と人脈。
凛は護衛。
摩夜は情報。
陽葵は配信。
それぞれに自分たちの役割がある。
なのに。
「身の回りのお世話と護衛……」
結衣がぽつりとつぶやく。
「……両方?」
「はい」
詩音は即答した。
聖奈も微笑みながら、ほんの少しだけ目を細める。
「なるほど……」
凛も黙って詩音を見る。
摩夜は眼鏡を押し上げた。
「……役割が、かなり重複しているね」
陽葵も少しだけ困ったように笑う。
「そうですね……」
歓迎する気持ちはある。
ハルトの仲間なら、当然だ。
それでも。
ほんの少しだけ。
部室の空気に、妙なもやもやが生まれていた。
そんなことなど一切気づかない晴人だけが、嬉しそうに笑っていた。
「じゃあ、改めて紹介するな!」
晴人は詩音の隣に立つ。
「こいつはシオン。俺の昔からの仲間だ」
そして。
「今日から炎の勇者チャンネルの新メンバーってことでいいよな?」
その言葉に。
詩音は深く頭を下げた。
「はい、マスター」
こうして。
炎の勇者チャンネルに、新たなメンバーが加わった。
突然現れた新メンバーを前に、部室にはまだ少しだけ妙な緊張感が残っていた。
とはいえ。
「まあ、とりあえず座ろうぜ」
晴人がそう言うと、詩音も素直に近くの椅子へ腰を下ろした。
それを見て、結衣もようやく肩の力を抜く。
「えっと……改めて、よろしくね。詩音ちゃん」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
「私は西園寺聖奈です。晴人……いえ、勇者様の仲間として、これからよろしくお願いします」
「はい。聖奈様ですね」
「……様?」
聖奈が少しだけ目を瞬かせる。
「マスターの仲間ですので、相応の敬意を」
「そんなにかしこまらなくても大丈夫ですよ」
「承知しました」
詩音は即座に頷いた。
その返事の速さに、結衣が思わず苦笑する。
「なんというか……すごく真面目だね」
「そうでしょうか?」
「うん。ハルトの周りって、もっとこう……」
結衣は部室を見回した。
聖奈。
凛。
摩夜。
陽葵。
そして詩音。
「……濃い人が多いから」
「結衣、それ俺も入ってる?」
「もちろん」
「そっか!」
晴人は嬉しそうだった。
「じゃあ、俺たちみんな濃い仲間ってことだな!」
「そこ喜ぶところじゃないと思うんだけど……」
いつもの調子が戻り始める。
凛もようやく警戒を解き、詩音へ向き直った。
「シオン」
「はい」
「先ほどは失礼した」
「いいえ。護衛として当然の対応です」
詩音は穏やかに答える。
「主の安全を第一に考える。その判断は正しいと思います」
「……そうか」
凛は少しだけ表情を緩めた。
「ならば、私も歓迎しよう」
「ありがとうございます」
その様子を見ながら、摩夜が口を開いた。
「ところで、一つ確認してもいいかな」
「どうぞ」
「君の現代での年齢は?」
「あ、それ私も気になってた!」
結衣が身を乗り出す。
「詩音ちゃんって、何歳なの?」
「十六歳です」
「え?」
結衣が目を丸くする。
「十六?」
「はい」
詩音は頷いた。
「高校二年生に相当します」
「……」
聖奈が静かに詩音を見る。
そして。
「それでしたら」
何かを思いついたように、柔らかく微笑んだ。
「青葉高校へ編入してはいかがでしょう?」
「編入、ですか?」
「はい」
聖奈は自然な調子で続ける。
「私たちは皆、青葉高校に通っています。晴人様も、結衣さんも、凛さんも同じです」
「私もだよ」
晴人が手を挙げる。
「だから詩音も一緒に学校へ行けばいいんじゃないか?」
「……」
詩音は黙り込んだ。
学校。
その言葉を聞いた瞬間。
詩音の中に、かつての記憶が浮かぶ。
教室。
机。
授業。
友人。
笑い声。
普通の少女として過ごしていた時間。
しかし、それはもう遠い過去だ。
自分は普通の少女ではない。
暗殺者として育てられた。
そして今は――。
マスターに仕えるシオンだ。
「……私が、学校へ?」
「そう」
晴人は何でもないことのように頷く。
「面白そうじゃん」
「……」
「俺たちと同じ学校なら、部活にも来やすいし」
晴人は笑った。
「放課後、一緒に帰れるぞ」
「…………」
詩音の表情が止まった。
ほんの数秒。
そして。
「はい」
即答だった。
「お願いします」
「えっ」
結衣が驚く。
「決断早っ!」
「マスターがお望みですので」
詩音は当然のように答えた。
「学校へ通うことに異論はありません」
「いや、さっきまで迷ってたよね?」
「迷っておりました」
「じゃあ、なんで今そんなに即決なの!?」
「マスターにお誘いいただきましたので」
「……」
結衣は何も言えなくなった。
聖奈はそんな詩音を見て、微笑ましそうに笑う。
「それでは、手続きはこちらで進めましょう」
「聖奈さんにお願いしても?」
「もちろんです」
詩音は深々と頭を下げる。
「ありがとうございます」
「いえ。晴人様の仲間が増えるのですから、そのくらいは当然です」
「聖奈、助かる!」
「はい。お任せください」
聖奈は嬉しそうに頷いた。
そして、ふと詩音を見る。
「それに……同年代の方が増えるのは、私としても嬉しいです」
「そうですね」
陽葵も笑顔になる。
「学校で一緒に過ごせる仲間が増えるのは楽しそうです」
「私は少し複雑だが」
凛が真面目な顔で言った。
「護衛対象の近くに、私でも気づけないほどの隠形を使える者がいるというのは……」
「凛」
晴人が笑う。
「仲間なんだから大丈夫だって」
「……主がそう言うなら」
凛は素直に頷いた。
摩夜はそんな二人を見ながら、静かに息を吐く。
「なるほどね」
「何が?」
晴人が聞く。
「君の周囲には、本当に君を中心として人が集まるんだなと思ってね」
「そうかな?」
「そうだよ」
摩夜は苦笑する。
聖奈も。
凛も。
陽葵も。
そして今は詩音も。
それぞれ違う理由で晴人のそばにいる。
しかも、役割まで少しずつ重なり始めている。
聖奈は資金と社会基盤。
凛は護衛。
摩夜は情報。
陽葵は配信。
結衣は日常と運営。
そして――。
「詩音は世話役と護衛、さらに諜報もできるんだよな?」
晴人が尋ねる。
「はい」
「じゃあ、めちゃくちゃ頼りになるじゃん!」
晴人は嬉しそうに笑った。
「これからよろしくな、詩音!」
「はい」
詩音も微笑む。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。マスター」
こうして。
四月一詩音の青葉高校編入が、あっという間に決まった。
ただし。
その決断速度について。
部室にいた全員が、ほぼ同じことを考えていた。
――この子、ハルトのことになると判断が早すぎない?
「そうだ!」
晴人が突然、手を叩いた。
「詩音が新メンバーになったなら、紹介動画を撮らないとな!」
「あ」
結衣も頷く。
「そういえばそうだね」
炎の勇者チャンネルでは、新しい仲間が加入した際に紹介動画を撮るのが恒例になっている。
凛の時もそうだった。
陽葵の時もそうだった。
真利の時もそうだった。
ならば、詩音だけ例外にする理由はない。
「視聴者にもちゃんと紹介しないとね」
「はい」
詩音は素直に頷いた。
「マスターのお仲間として、皆様にご挨拶できるのであれば喜んで協力いたします」
「よし!」
晴人が乗り気になる。
「じゃあ、どんな動画にするか決めよう!」
「詩音さんの紹介ですから……」
陽葵が少し考える。
「やっぱり、詩音さん自身のことが分かる動画がいいですよね」
「そうだな」
凛が頷く。
「剣を使うところを見せる、というのはどうだ?」
「それはやめよう」
結衣が即座に却下した。
「なんで?」
「なんでって……普通の高校生が初登場動画で剣振り回したら変でしょ」
「でも詩音、強いぞ?」
「それは知ってるけど!」
結衣が頭を抱える。
「視聴者にはまだ秘密なの!」
詩音は不思議そうに結衣を見る。
「秘密にする必要があるのでしょうか?」
「あるの!」
「承知しました」
詩音は即座に引き下がった。
その素直さに、結衣は少しだけ安心する。
「じゃあ……」
摩夜が口を開く。
「詩音の一番分かりやすい特徴を出すなら、メイドじゃないかな」
「メイド!」
晴人が反応した。
「それだ!」
「やっぱりそこですよね」
陽葵も笑う。
「詩音さんといえば、メイドさんですから」
「はい」
詩音は頷く。
「私はメイドですので」
まるでそれが何より当然の事実であるかのような言い方だった。
「なら、メイドらしい仕事をしてもらおう」
聖奈が考え込む。
「掃除などはいかがでしょう?」
「掃除かぁ」
晴人が腕を組む。
「普通の家を掃除するだけだと、動画としてはちょっと弱いよな」
「でしたら」
聖奈が微笑む。
「普通ではない場所を掃除していただけばよろしいのでは?」
「普通じゃない場所?」
「長年使われていない建物などです」
その言葉に、結衣が少し考える。
「廃屋とか?」
「そう、それ!」
晴人の目が輝いた。
「廃屋を綺麗にする動画!」
机の上に身を乗り出す。
「格安で買えるような古い廃屋を一軒用意して、詩音がメイドとしてピカピカにする!」
「……」
詩音は静かに晴人を見る。
「廃屋を、ですか?」
「うん!」
「私が掃除を?」
「そう!」
晴人は嬉しそうに頷いた。
「詩音のメイド能力をみんなに見てもらうんだ」
「承知しました」
詩音は迷いなく頷いた。
「それでしたら、全力で務めさせていただきます」
「おお!」
晴人が嬉しそうに笑う。
「じゃあ決まりだな!」
「ちょっと待って」
結衣が手を挙げた。
「廃屋って、どのくらいの廃屋?」
「格安で買えるやつ」
「いや、そこじゃなくて……」
結衣は嫌な予感を覚えた。
「本当に掃除だけで済む?」
「もちろん」
詩音が答えた。
「汚れを除去し、不要物を処分し、必要に応じて修繕いたします」
「修繕まで?」
「メイドの仕事ですので」
「……」
結衣は黙った。
この子の言う「メイドの仕事」が、どうにも信用できない。
しかし晴人は何も気にしていなかった。
「せっかくだし、綺麗になった後の建物も何かに使おうぜ」
「撮影場所として使えばいいのでは?」
摩夜が提案する。
「それもいいけど……」
晴人は少し考えた。
そして。
「あ!」
何かを思いついたように顔を上げた。
「視聴者プレゼントにしよう!」
「……は?」
結衣が固まる。
「この建物を?」
「うん!」
晴人は楽しそうに頷く。
「綺麗にした廃屋を、そのままプレゼントするんだ」
「いやいやいや!」
結衣が慌てて止める。
「そんな大きなもの、どうやってプレゼントするのよ!」
「魔法でどうにかできるだろ」
「できるだろ、じゃない!」
結衣が叫ぶ。
「できるけど!」
それが一番困るのだ。
晴人は本当にできる。
空間魔法も。
創造魔法も。
修復も。
建物の改造だって、おそらく本人にとっては大した問題ではない。
「例えばさ」
晴人は指を折りながら説明する。
「掃除が終わったら、魔法で建物そのものを綺麗に修復して」
「うん」
「壊れてるところも直して」
「うん……」
「家具とかも必要なら作って」
「……うん」
「庭とかも綺麗にして」
「うん」
「最後に、誰か一人にプレゼント!」
「それもう廃屋じゃなくて新築の家じゃん!」
結衣のツッコミが部室に響いた。
「そう?」
「そうだよ!」
晴人は首を傾げる。
詩音はそんな晴人を見て、静かに微笑んでいた。
「素晴らしい企画だと思います」
「詩音まで!?」
「主が用意なさるのであれば、きっと素晴らしいものになるでしょう」
「そうだろ?」
晴人は嬉しそうに笑う。
「じゃあ決まり!」
聖奈がすぐに話をまとめ始める。
「では、格安で購入可能な廃屋を探しましょう。撮影許可や所有権の問題もありますので、こちらは私が手配します」
「助かる!」
「建物の状態確認は私がやろう」
凛が言う。
「危険がないか調べておく」
「私は周辺情報を調べる」
摩夜も続く。
「過去に事件などがあった物件は避けた方がいいだろう」
「私は撮影と編集を担当するね」
結衣がため息をつく。
「……なんだかんだ、ちゃんと企画になってきた」
そして。
全員の視線が詩音へ集まった。
「私は?」
詩音が尋ねる。
晴人は笑顔で答えた。
「詩音は――」
少し間を置いて。
「メイドとして、廃屋をピカピカにしてくれ!」
「かしこまりました、マスター」
詩音は立ち上がり、深々と一礼する。
「主のご期待に添えるよう、完璧に仕上げてみせます」
その言葉に。
誰も気づいていなかった。
これから撮影する動画が。
炎の勇者チャンネルにおける、新たな伝説の始まりになることを。
次の動画についての話がまとまると、部室に漂っていた「会議」の空気は、少しずつ薄れていった。
「廃屋かぁ」
陽葵が楽しそうに呟く。
「どんな場所になるんでしょうね」
「なるべくボロボロの方がいいんじゃない?」
晴人が答える。
「その方が、詩音が綺麗にした時の差が分かりやすいし」
「そうですね」
詩音は頷く。
「でしたら、かなり状態の悪い物件でも問題ありません」
「本当に?」
「はい。屋根が残っているのであれば、十分に対応可能です」
「屋根が残ってればって……」
結衣が苦笑する。
「それ、廃屋っていうより半壊じゃない?」
「それくらいの方が面白そう!」
「ハルトはちょっと黙ってて」
「なんで!?」
いつもの調子だった。
誰かが笑い。
誰かが突っ込み。
それを聞いた誰かがまた笑う。
つい先ほどまで、詩音という新しい仲間をどう受け入れるかという緊張感があったのが嘘のようだった。
詩音も、その輪の中に自然に溶け込んでいる。
それを見ていた聖奈は、ふと微笑んだ。
「それにしても……」
「ん?」
晴人が振り向く。
「詩音さんがこうして部室にいるのは、なんだか不思議な感じがしますね」
「そう?」
「はい。昨日まで異世界にいた方が、今日は同じ学校の仲間としてここにいるのですから」
「確かにな」
晴人は頷いた。
「でも、シオンがいるとやっぱり落ち着くな」
「……ありがとうございます、マスター」
詩音の声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
そのやり取りを見ていた結衣は、何となく嫌な予感がした。
詩音は異世界時代、ハルトのすぐそばにいた。
それだけでも十分に強烈なのだ。
そこへ、さらに何かを聞かれたら――。
「そういえば」
聖奈が尋ねた。
「詩音さんは、今はどこに住んでいるのですか?」
結衣の心臓が跳ねた。
来た。
結衣は反射的に口を開きかける。
――待って。
その話は、今ここでする必要はない。
詩音がハルトの家に住んでいることは、できれば伏せておきたい。
いや。
正確には、隠しているわけではない。
隠す必要があるとハルトが理解していないだけだ。
だからこそ、結衣が気を使っていた。
詩音が一ノ瀬家に住んでいる。
ハルトと同じ家で暮らしている。
それだけを聞けば、普通の高校生ならどう考えるか。
まして、この部室にいるメンバーの大半は――。
「俺の家」
晴人があっさり答えた。
「…………」
結衣の口が半開きになる。
「……ハルト?」
「ん?」
「ちょっと待って」
「何?」
「今、何て言った?」
「だから、詩音は俺の家に住んでる」
あまりにも自然な口調だった。
まるで「昨日の夕飯はカレーだった」とでも言うように。
「……」
結衣は額を押さえた。
――言っちゃった。
よりにもよって本人が。
「一ノ瀬家、ですか?」
聖奈が確認する。
「うん」
「晴人様と……同居している?」
「そうだよ」
また即答。
結衣は天井を見上げた。
――もう知らない。
私が気を使っていた意味、全部なくなった。
「正確には、マスターのご両親から滞在の許可をいただいております」
詩音まで平然と補足した。
「私専用の部屋も、マスターが用意してくださいました」
「…………」
今度は誰も喋らなかった。
「……ハルト」
凛が低い声で言う。
「なに?」
「お前は……その……」
凛にしては珍しく、言葉を選んでいる。
「女子と一つ屋根の下で暮らしていることに、何も思わないのか?」
「だってシオンだぞ?」
晴人は本気で不思議そうだった。
「異世界にいた時も、ずっと一緒だったし」
「……そういう問題ではないと思う」
「そうかな?」
晴人は首を傾げる。
凛は頭を抱えた。
聖奈も微笑みを保ってはいるものの、その目は明らかに笑っていない。
陽葵は困ったように耳を伏せていた。
摩夜は眼鏡を押し上げながら、静かに詩音を観察している。
そして結衣は。
――知ってた。
私は知ってた。
昨日から知ってた。
でも、改めてみんなの前で聞かされると、やっぱり破壊力がすごい。
しかも。
ハルトに悪気がない。
それが一番困る。
「……詩音さん」
聖奈が穏やかに尋ねる。
「一つ、聞いてもよろしいですか?」
「はい」
「晴人様と一緒に暮らしていて……その」
聖奈が一瞬だけ言葉を止める。
「将来的には、晴人様の妻になりたい、と考えているのでしょうか?」
空気が変わった。
今までとは違う。
誰も口を挟まない。
凛も。
陽葵も。
摩夜も。
結衣も。
全員が詩音を見る。
詩音は少しだけ考えた。
そして。
「いいえ」
迷いのない答えだった。
「私は、マスターの正妻になりたいとは考えておりません」
「…………」
今度は別の意味で沈黙が落ちた。
聖奈の眉がわずかに上がる。
凛も目を瞬かせた。
結衣は思わず詩音を見る。
「……どうして?」
思わず口から出た。
詩音は結衣を見る。
「私はメイドですから」
その言葉に、詩音はほんの少しだけ胸を張った。
「マスターにお仕えすることが、私にとって最も大切なことです」
「……」
「妻になることを望んでいるわけではありません」
詩音は静かに続けた。
「マスターの傍にいて、身の回りのお世話をして、必要とあればお守りする。それが私の望みです」
「それだけ?」
陽葵が尋ねる。
「はい」
詩音は頷いた。
「私は、メイドである自分を大切にしています」
それは、恋愛を否定する言葉ではなかった。
むしろ。
自分が何者なのかを、はっきりと定めている言葉だった。
シオンにとって、晴人は主だ。
そして自分は、主に仕える者。
それは身分や契約だけではない。
異世界で共に旅をし、生き延び、戦い抜いた時間の中で、自分自身が選んだ生き方なのだ。
「だから」
詩音は晴人を見る。
「マスターが私を必要としてくださる限り、私はメイドとしてお仕えします」
「そっか」
晴人は笑った。
「じゃあ、これからも頼むな」
「はい」
詩音も嬉しそうに頷いた。
その光景を見ながら。
聖奈は複雑な気持ちになっていた。
正妻を望まない。
ならば、自分にとっては恋敵ではないのかもしれない。
そう思った。
しかし同時に。
――違う。
それでは安心できない。
ハルトの一番近くにいる。
同じ家で暮らしている。
しかも、本人はそれを「メイドとして当然」と考えている。
恋愛を意識していないからこそ、距離が近すぎるのだ。
「……なるほど」
聖奈は微笑んだ。
その笑顔の奥に、わずかな警戒心が生まれていた。
凛もまた、詩音を見る。
正妻を望まない。
ならば、自分と争う理由はない。
――だが。
護衛としての役割は、完全に重なっている。
しかも詩音は、自分でも気づけなかった隠形を使う。
凛の中にも、静かな対抗心が芽生えていた。
「……強敵だ」
小さく呟く。
「何が?」
晴人が聞く。
「いや、何でもない」
凛は首を振った。
一方。
摩夜は少し離れたところから、詩音を観察していた。
恋愛関係を望んでいるわけではない。
しかし、晴人への忠誠心は極端に強い。
ならば、問題は恋愛感情ではない。
もっと別のところにある。
――この子は、本当にハルトのためなら何でもする。
摩夜はそう直感していた。
そして陽葵は。
「……なんだか、すごいですね」
純粋に感心していた。
自分にもハルトを支えたい気持ちはある。
けれど、詩音のそれは種類が違う。
主のために生きる。
その言葉を、そのまま人生そのものにしているように見えた。
そして結衣。
結衣だけは、少し違うことを考えていた。
詩音は、正妻になりたいわけではない。
それなら、少し安心できる。
――でも。
同じ家で暮らしてるんだよね。
しかもハルト本人は、それを何とも思ってない。
「……」
結衣は頭を抱えたくなった。
恋愛の問題以前に。
この二人には、距離感という概念が存在していない。
「まあ、いいか」
晴人が呑気に言った。
「みんな仲間なんだし」
「……」
全員が晴人を見る。
そして。
誰もが、それぞれ違う意味で思った。
――本当に、この人は何も分かっていない。
部室には再び笑い声が戻った。
けれど。
詩音が加わったことで。
それぞれの心の中には、今までとは少し違う感情が芽生え始めていた。
その後もしばらく雑談は続いた。
しかし、窓の外が少しずつ暗くなってくると。
「そろそろ帰るか」
晴人が立ち上がった。
「そうですね」
結衣も荷物をまとめる。
「明日は学校もあるし、今日はこの辺にしておこう」
「詩音さんの編入手続きについては、私の方で進めておきます」
聖奈も鞄を手に取った。
「よろしくお願いします」
詩音が頭を下げる。
「それでは、また明日」
「うん!」
陽葵が笑顔で手を振る。
「詩音さん、明日からよろしくお願いしますね」
「はい。こちらこそ」
「私も帰る」
「私も」
凛と摩夜も続く。
こうして。
炎の勇者チャンネルの部室に集まったメンバーは、それぞれの家へ帰っていった。
新しい仲間を迎えた一日は、こうして終わった。
――ただ一人。
晴人の隣を歩く少女だけは、帰る場所が少し違っていた。
「ただいまー」
玄関の扉を開ける。
「お帰りなさいませ、マスター」
「ただいま、シオン」
詩音は自然な動作で晴人の鞄を受け取った。
「お疲れでしょう。お着替えを用意しておきます」
「ありがと」
「夕食も間もなく完成いたします」
「おお!」
晴人が嬉しそうに笑う。
それを見送ると、詩音はすぐに動き始めた。
制服を整える。
夕食を用意する。
食器を並べる。
洗濯物を片付ける。
リビングを整える。
キッチンを清掃する。
今日一日の汚れを残さない。
それは、彼女にとって特別な仕事ではなかった。
異世界にいた頃から、何度も繰り返してきた日常。
主の生活を整える。
主が快適に過ごせるようにする。
必要とされれば、すぐに動けるようにしておく。
それがシオンという少女にとって、ごく自然な生き方だった。
やがて。
「それじゃ、おやすみ」
晴人が自室へ向かう。
「はい。おやすみなさいませ、マスター」
詩音は一礼した。
足音が遠ざかる。
静かになった家の中で、詩音は最後に戸締まりを確認する。
窓。
玄関。
裏口。
異常なし。
周囲の気配も問題ない。
それを確認してから、ようやく自分の部屋へ戻った。
ぱたん。
扉を閉める。
部屋には、必要最低限の家具が置かれている。
ベッド。
机。
クローゼット。
そして、明日のために用意された学校の制服。
「……明日から、学校ですか」
詩音は制服を見る。
まだ少し不思議な感じがした。
青葉高校。
晴人と同じ学校。
そして。
今日からは、晴人の仲間たちとも同じ場所で過ごすことになる。
「……楽しみですね」
小さく呟く。
詩音は制服を丁寧に整え、明日の持ち物を確認していく。
筆記用具。
教科書。
ノート。
必要なものを一つずつ揃える。
メイドとして。
明日の朝、マスターが困らないようにするための準備も忘れない。
そして最後に。
ベッドへ腰を下ろした。
「……」
静かな部屋。
今日一日を思い返す。
新しい仲間。
新しい学校。
新しい日常。
けれど。
詩音にとって変わらないものが、一つだけある。
――マスターの傍にいること。
それだけは、異世界にいた頃から何も変わらない。
「……あの頃も」
詩音は、ぽつりと呟いた。
その言葉をきっかけに。
記憶の奥底に眠っていた光景が、静かに蘇り始める。
見知らぬ世界。
まだ幼かった自分。
そして。
自分の前に現れた――勇者。
シオンが、四月一詩音になるよりも前。
一ノ瀬晴人と出会う、ずっと昔の物語。
「……」
詩音は目を閉じた。
そして。
その記憶の中へ、静かに意識を沈めていった。




