エピソード45
―変化―
朝の光が、森の外れにある小さな家の縁側を照らしていた。
テーブルにはリリィの用意した朝食が並び、ルナがその足元でくつろいでいる。
それは、何気ない朝――けれど、何かが変わり始めている。
そんな気配が、空気の隙間に漂っていた。
「少し、外を見てくる」
短くそう告げて、俺は使い古された手帳を手に外へ出た。
以前より歩き方が重たく、足取りは慎重だったが――どこか意志が感じられる背中だった。
リリィは見送るだけで声をかけなかった。けれどリリィの胸の中には、小さな決意が芽生え始めていた。
俺は、森の端に腰を下ろし、手帳を開いた。
そこには、かつて自身がコントロールのために書いた術式の記録。
今、その構造を“共存”つまり受け入れるために書き直し始めている。
(完全にコントロールするのは、もう無理だ……
なら、操ろうとせず、扱えるようにするしかない)
その選択が正しいかどうかは分からない。
けれど、もう目を背けるわけにはいかなかった。
リリィが言ってくれた“全部を受け止めたい”という言葉。
それが、俺の中に残り続けていた。
(なら俺も、受け止める。――自分の一部として、あいつを)
一方、家ではリリィが本棚に向かっていた。
魔術の理論書、魂の構造、意識と力の分離に関する記述。
「……主様が読んでいたのは、これ」
呟きながらページをめくる。
文の意味は難しくて、一つひとつ時間がかかった。
それでも、知ろうとしていた。
(……あなたは、“主様の中の力”……)
心の中で、そう呼んでみる。
(でも、あなたにも意志があって、言葉があって……)
あの夜の声を思い出す。
優しすぎるほど穏やかで、けれどどこか冷たいあの声を。
(私は……ただ怖がるだけじゃなくて、理解したい)
ルナがそっと膝の上に乗ってきた。
その温かさが背中を押してくれているかのようだった。
(主様と、アエルさん……二人を)
その頃、ガエリアの内側――
アエルは、リリィの行動を静かに観察していた。
(また、君か)
最初はただの変数、干渉要因のひとつ。
だが、今は違う。
(好奇心、優しさ、恐れ――その全てが君を作っている。
僕は、君を完全には読めない。……それが、面白い)
アエルは初めて、“興味”という名の感情に近いものを覚えていた。
(君は僕にとって、不確定な存在だ。だが……嫌いじゃない)
その心の中で、小さく囁いた。
―静かな訪問者―
その日、リリィは庭に咲いたばかりの花を摘んでいた。
朝露に濡れた花弁は柔らかく、ひとつひとつがどこか儚げだった。
ふとした瞬間、背中に気配を感じて振り向くと――そこに、“主様”が立っていた。
けれど――リリィは、すぐに気づいた。
「……アエル、さん、ですね」
彼は微笑んだ。
その仕草は穏やかで、何も変わらないように見える。
けれど、瞳の奥にあるものだけが違っていた。
「君は、本当によく見ているね。……そう、今は“彼”ではないよ」
声も柔らかく、言葉遣いも丁寧で。
けれどその“完璧さ”が、リリィには逆に居心地の悪さを感じさせた。
「……何のために、出てこられたんですか?」
少し強めの言葉だった。
だがアエルは、驚くこともなく、ただ視線を少しだけ空に向けた。
「知りたかったんだ。君が、僕をどう見ているのか。
……そして、なぜ“彼”をそこまで大切にするのか」
「……主様だからです」
即答だった。
アエルは目を細めた。
「そう。けれど、彼の中に“僕”が混ざっていても? 今の彼が、昔の彼と違っていても?」
「違っていても、構いません」
リリィの声には、迷いがなかった。
「誰だって、変わります。……それを“変わったから別人”だと切り捨てたくないんです。
私は……今、目の前にいる主様を、大切に思っています」
アエルは、ほんの一瞬、言葉を失った。
(理屈では説明できない。予測通りでもない。だが……心地悪くは、ない)
「……君は、僕が彼を壊すと思っているだろう?」
リリィは、わずかに目を伏せた。
「……思っていました。でも、あなたの中にも“優しさ”があるように見えたんです」
それが、嘘であっても。演技であっても。
たとえ主様とは別の存在でも――
「だから、私はあなたとも向き合おうと決めました。
主様があなたを“受け入れようとしている”なら、私もそうありたいと思います」
静かな風が、庭の草花を揺らした。
「……主様が誰よりも優しかったからです。私も……その優しさに支えられていたから。
それを形作る一部なら、たとえあなたが別の存在でも……知ろうとしたいって思えました」
アエルは、目を細めてその光景を見つめていた。
「君のような存在が、“彼”のそばにいたのなら……僕の在り方も、少し変わっていたかもしれないな」
その言葉を口にした瞬間、わずかに思考が引っかかった。
胸の奥で、何かが沈むような感覚――“これは、寂しさ?”。
自問しかけて、すぐに打ち消した。そんなものは、不要なはずだった。
――なぜ、そんな言葉を選んだのか。理屈では説明できなかった。
その言葉に、ほんの一瞬だけ――“本当の感情”のようなものが、滲んだ気がした。
「リリィ。……僕はまだ、君が“どういう存在なのか”を測っている。
でも、もし君が嘘を吐かない限り……僕は君を傷つけたりはしないよ」
アエルは何かを言いかけて、少しだけ黙った。
言葉を選び損ねたのか、それとも――出せなかったのか。
けれど、結局それ以上何も言わずに、彼は背を向けた。
そしてゆっくりと、主様の中に戻っていった。
リリィはしばらくその場に立ち尽くしていた。
けれど、恐怖よりも先に心に浮かんだのは――あの声が、ほんの少しだけ寂しそうだったことだった。




