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エピソード44

―言葉にならない―



 「……主様」


 


 その声が、静かに耳に届いた。



 重かったまぶたを、ゆっくりと持ち上げる。



 月明かりの中で見えたのは、リリィの顔だった。



 心配そうで、それでもどこか――嬉しそうな微笑をたたえていた。





「リリィ……?」





 自分の声が出たことに、少し驚いた。



 喉が乾いていたが、先ほどまでの痺れや息苦しさが、幾分和らいでいる。



(……少し、楽になっている……)



 否――先ほどまでが、悪すぎただけだ。



 頭の奥はまだ霞がかかったまま。



 手足の感覚は鈍いが、それでも、リリィの手のぬくもりははっきり感じた。



 彼女が、僕の手を取ってくれていた。



(……守れなかった)



 それが、胸に最初に湧いた想いだった。



 こんな姿を見せるつもりじゃなかった。



 離れて、傷つけないようにしたかったのに――結局、彼女を不安にさせただけだった。





「……ごめ……」





 謝ろうとした。



 でも――





 「……っ」





 喉が、ヒュッと音を立てて引きつった。



 言葉にならない。



 まるで、空気が一瞬凍ったように声が出ない。



 喉が焼け、胸が小さく震える。無理に吐こうとした言葉が、唇の奥で渦巻いていた。





(……なんで、だ)





 謝ろうとしただけなのに。



 なのに、喉が――心が――勝手に、拒んだ。





 ――拒まれるのが、怖かった。





 たったそれだけの想いが、全身を縛っていた。



 今、彼女に「もう大丈夫」と微笑まれても――



 もし、僕の口から真実がこぼれたら、彼女はそれでも、同じ顔をしてくれるのだろうか。



(昔の俺なら、こんなふうに怯えたりしなかった)



 孤独には慣れていた。



 信じられるものも、少なかった。



 それでも、構わないと思っていた。



 でも、今は違う。



 僕はもう、誰かが側にいる温度を知ってしまった。



 リリィの優しさも、ルナのまっすぐな目も。



 全部、愛しくて――でも、失ったときの痛みを想像すると、怖くて仕方がない。





「……ごめ……な、さい……」





 ようやく、ひとことだけ絞り出した。



 それだけでも、胸が潰れるほど苦しかった。



 リリィは、何も言わずに僕の手を強く握ってくれた。





―本音の隣に―



「……ごめんなさい」





 弱々しくも、確かに届いたその声に、私はそっと目を伏せた。



 主様は、自分を責めている。



 でも私は、責めたいなんて、一度も思ったことはなかった。





「主様、私……怖かったんです」





 口に出すと、喉が震えた。



 けれど、ちゃんと伝えたかった。あの夜のことも、その前の違和感も、そして今の、この気持ちも。





「でもそれは、主様が変わったからじゃなくて……私が、主様のことを大切に思いすぎていたからです。

 だから、不安になったんです。少しでも遠くに行ってしまいそうで」





 主様の指が、わずかに動く。



 顔は伏せたままだったが、その肩が小さく揺れた。





「……君は、それでも……怖くなかったのか」



 しばらくして、ぽつりと呟くような声が返ってきた。



「僕の中の何かが、君の知らないものになっても……」



「はい」





 即答だった。



 主様が驚いたように、少しだけ目を開いたのが見えた。



「怖くないわけじゃありません。

 でも、“それでも信じたい”って思ったんです。私が知っている主様が、全部じゃないかもしれなくても。

 今、こうして謝ろうとしてくれる主様が、“偽りじゃない”って、信じられるからです」





 その言葉に、主様の目が揺れた。



 何かが――奥で、変わっていくような気配がした。





(……この子は、厄介だな)



 アエルの声が、静かに揺れた。



(あまりにも、真っ直ぐすぎる。柔らかく、温かく、優しすぎる。

 だから、君は心を砕き続ける。……やがて、君自身を終わりへと導く)



『君にとってマイナスな存在かもしれない――』



 そう思考しながらも、彼の口から出た言葉は違った。



(ここで感謝を示すのが最適解だ。彼女の情緒を安定させ、ガエリアの崩壊を防ぐ)





「リリィ。……ありがとう。僕が何を失っても、君がいてくれるなら……

 少しだけ、また前を向けそうな気がする」





 それは完璧な言葉だった。



 誰も責めず、誰の心も痛めず、希望を織り交ぜた、最高の回答。



 けれど、その“完璧”が、少しだけ遠く感じた。



 リリィは、そっと笑った。





「主様。……それでも、ちゃんと自分の言葉で話してください」





 言ったあと、リリィは自分でも驚いた。



 でも、それが自然だった。違和感があるのは、主様の“完璧すぎる言葉”が、本当の主様の声じゃないとわかったからだ。





「私が聞きたいのは、優しい嘘じゃありません。

 怖いなら、怖いって言ってください。苦しいなら、苦しいって。

 私は……それごと受け止めたいんです。主様の全部を、です」





 沈黙。



 でも、その静けさが、心を結びつけていくようだった。





「……僕は、怖いんだ。

 君が、僕を“それでも主様だ”と言ってくれることが、嬉しくて、でも……怖い」



「……どうしてですか?」



「いつか、それを失う気がして。

 君まで、いなくなってしまうんじゃないかって。……そうなったら、僕は……」



 リリィは、そっと主様の手を握り直した。



「私は、いなくなりません。

 何があっても、主様を見ています。だから――いまの主様で、いてください」





 その言葉に、胸の奥が微かに軋んだ。



 ――怖くて、愛しくて、どうしようもなく、涙がこぼれそうだった。



(……感情は、持たない。だが――彼が揺れたとき、何かが微かに“動いた”気がした)



(……言葉にするには、定義が足りない。

だが――もし“今の俺”に、何かを言う資格があるなら……)



 俺は、黙った。



 風が、夜の森を撫でた。


 それは、確かに触れた――繋がった心を包み込むように。

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