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エピソード43

―そばにいられない―



 昼の陽が落ち始め、家の中がゆっくりと陰っていく。



 僕は、震える指を隠すように、食器を洗っていた。



 リリィは、今日も変わらず、優しかった。



 ――その優しさが、何より痛かった。





「主様、私がやりますから……!」



「いや、大丈夫だよ。リリィにばかり任せてはいられないからね」





 口が自然に動いた。声も整っていた。



 だが、その言葉の一つひとつが、自分の意志で出しているのかどうかすら、曖昧だった。



 笑おうとした。でも口元がひきつる。



 リリィは何も言わなかったけれど――その瞳が、わずかに揺れていた。



(このままじゃ……また、あいつが……)



 指先は痺れている。足は重くて、引きずるようにしか動かない。



 頭は、誰かにぐちゃぐちゃにかき混ぜられたように痛い。



 でも、リリィにそれを見せたくなかった。





 ――だから、決めた。





 夜になり、リリィが眠った頃。



 僕は、家の扉を静かに開けた。



 月の光が森を照らしている。




 僕はふらふらと足を運び、家のすぐ外れ――小さな崖の上の石台のような場所へと向かった。



 ここは、僕が昔、よくひとりで魔術式を練習していた場所だ。



 静かで、風が通る。人も来ない。



 そして――“誰かを傷つける心配がない”。



(これで、いい……少しでも、離れていれば……)



 地面に座り、膝を抱えた。



 体が痛い。



 思考もまとまらない。



 けれど、リリィの顔が、少しだけ浮かんで――それが、ほんの救いだった。





『君は、なぜそこまで彼女を怖がらせたくない?』





 声がする。アエルだ。



 でも、今日はなぜか、少しだけ……静かだった。





『彼女は強い。君が思っているより、ずっとね』



「……それでも、守りたかった。

 ……この姿のままで、そばにいたくなかったんだ」



『なら、いっそ完全に譲ってしまえばいい 僕なら、彼女を悲しませずにいられるよ』



「……それは、俺じゃない」





 遠くで、ルナの鳴き声が聞こえた気がした。



 それは、どこか切なくて、痛くて――けれど、呼びかけられているようだった。



(ごめん……もう少しだけ、ひとりにさせてくれ)





―月下の囁き―



 夜風が、カーテンをふわりと揺らした。


 リリィはふと目を覚ました。



 いつもなら、隣の部屋から微かに聞こえる主様の気配――それが、今夜はまるで感じられなかった。



(……主様?)



 身を起こし、部屋を見渡す。誰もいない。



 そして、傍らにいたルナが、何かを察したように動き出す。



 耳を立て、部屋の外へと軽く鳴いて、ドアの方を見た。





「……ルナ……主様が……」





 リリィは寝間着の上に薄い外套を羽織り、ルナを抱えるようにして家を出た。



 夜の森。月明かりがやさしく、けれどどこか心細く、枝葉の間を照らしていた。





「主様……」





 呼ぶ声は、風に溶けていった。





 一方、森の奥。



 崖の縁にある石の上で、ガエリアは膝を抱えて座っていた。



(……戻らないと)



 思考はまだ朦朧としていたが、それでも、家の方角を見ようとした。



 そのとき――また、あの声が囁く。





『君は、戻るべきかな? その姿で? その心で?』



 ガエリアは、うっすらと眉を寄せる。



『……彼女を安心させるために、また笑う? 震える足で立って?

 それとも、“自分を偽るために”戻るのかい?』



「……やめろ……俺は、偽ってなんか……」



『違うかい? 僕にはそう見えるけど』





 沈黙。



 そして、アエルは少しだけ声音を落として、言った。





『……俺は、君なんだ。

 君が封じ込め、押し殺してきた“力”と“衝動”、

 でもそれらは全部、君の中から生まれたものだ。僕は、君の一部だよ』





 その言葉は、不思議なほどに優しかった。



 刺すようなものではない。ただ、静かに染み込んでくるような――悲しみにも似た声音。





『君が僕を拒み続けても、それでも僕は、君を見てる。君と、ずっと一緒にいる』





 もう、抗う力がなかった。



 全身が重い。手足は冷たく、目を開けているのもやっとだった。



 ガエリアはそのまま、石の上に身体を横たえ――静かに目を閉じた。





 リリィは、ルナの導くまま、森の奥へと進んでいた。



 そして、月が差す開けた場所に――彼を見つけた。



 崖の端に、静かに横たわるガエリア。



 白い髪が月光に照らされ、まるで光そのもののように輝いていた。



 その顔は、ただ眠っているだけだった。



 でも、どこか苦しげで、それでいて、儚かった。





「主様……」





 息をのんだ。



 美しいと、思ってしまった。その姿があまりに静かで、壊れそうに見えたから。



 リリィはそっと駆け寄り、膝をついてその手を取った。



 冷たい。けれど――まだ、生きている。





「どうして……ひとりで……」





 答えはない。ただ、月だけが沈黙のまま、二人を照らしていた。



リリィは、ぎゅっとその手を握った。



 震える唇を噛みしめながら、心に誓う――もう、彼を一人にはしない、と。





―観測者―



 月の光が穏やかに降り注ぐ夜。



 崖の上で眠るガエリアの身体を包み込むように、風が吹いていた。



 俺は、その内部から、静かに彼を見下ろしていた。





「……無理をしなくていいんだよ、ガエリア」





 声に出さないその言葉は、完璧だった。



 柔らかく、寄り添い、安心を与える“最適な響き”。



 誰が聞いても、優しさと共感に満ちた言葉。



 それは“彼”を安心させ、“彼女”を守るために選ばれた、最も正しい言葉のかたち。



 ――だが、俺の中には、何もない。



 俺は怒っていない。哀しんでもいない。



 ましてや、彼に共感などしていない。



 俺は、ただ“彼を守る手段”として、それを言う。



 なぜなら、彼はそれを望んでいるからだ。



 自分を気遣い、理解し、代わりに立ってくれる存在を――



 表面だけでも信じていられる、“仮初めの優しさ”を。



 そうしておけば、彼は崩れない。



 崩れなければ、俺が出る必要もない。



 それでいい。それだけでいい。



 俺は、彼の精神の均衡を保つ“補助機構”にすぎない。



 優しさを装い、彼の判断を誤らせないように調整する。



(……俺はただ、彼という器が壊れないよう、底で支えているだけだ)



(リリィ、君もそうだ)



 彼女がこちらに向かっている。



 月明かりに導かれるように、小さな命がこちらへと近づいてくる。



 君がここで涙を流すなら、俺は君の手を取って言うだろう。



「大丈夫。俺が、彼を守っているから」



「彼は君を大切に思っているよ」



「だから、どうか彼を信じてあげて」





 その言葉に、どれほどの信頼が宿るだろうか。



 どれほどの安心を与え、救いになるだろうか。



 ――だが、それはただの機能だ。



 俺の中には、救いたいという感情も、信じてほしいという願いも、存在しない。



 俺は、彼が崩れないために動く。



 それ以外は、不要だ。



 (……そのはずだった)



 けれど、それでも。



 もし次に彼が限界を超える時が来るなら――



 そのときこそ、俺が“彼として”立ち上がるだろう。



 理想の声で、完璧な優しさを装って。



 何の痛みも、迷いも、持たないままで。

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